moonlight1(永香)

 俺のハニーと言った。






 よく俺がジョークでダーリンと言うたびに、はぐらかして口の端で笑ってきた男が。


 俺の憧れの、手が届くと思っていなかった男が。



「待たないか」



 追って来るな。俺は他の誰かの手を振り払って、仕事中なのも忘れて路地へ出ていた。階段を駆け上がりすぎたせいで息が上がっている。


 畜生。やられた。


 すっかり赤らんだ顔を見られたくなくて、壁に両手をつく。あんなのありか?余裕があるのは俺の方だったはずだ。最初はそうだ。


 ちょっとノンケをからかって、上手くいけば可愛がって貰い、それがダメならいつもの通り後腐れなく別れる。それだけの相手だった。その予定だった。


 人の恋路に首を突っ込んでみようと提案したのも、俺だ。


 なぜそんな馬鹿げたお遊びを始めたのかわからないが、その気のない奴――――俺と違って女に恋愛感情を持てる人種――――が身近に集まったから、結果がどうなるのか気になった。


 あんたはアリスのチェシャ猫みたいだと、姫さん似のアイツが前に言った。俺はニィっと笑って見せて、うちのマッドハッターはめったにお茶会には来ねぇよとグラスを傾けたのだ。


 鈍臭い時計の白ウサギを追いかけているつもりで、逆に追われてるとも知らない可愛いアリスは、ほら似てるだろ、と微笑んだ。


 知っていたかい、アリスちゃん。俺はアンタがうらやましくて、仕方なかった。せめておまえさん程度の体型だったら生きやすいはずだった。俺はちっとばかしニャンコに好かれやすい見た目で、ゲイとしては苦労が多かったんだ。





 男はサラリーマン、俺は夜の仕事。週末少しの時間だけが、俺と彼の時間だった。






 馬鹿野郎。三月ウサギくらいに例えてくれたら、お話の中だけでも常に傍にいられたんだ。



「どうした」

「どうしたじゃねぇよ――――」



 俺はいつもの調子で言いかけて、相手が誰か思い出した。壁に突っ伏し、唸りを上げる。



「今日は不意打ちばかりで驚いただけですよ」

「何がだ。こっちを向きなさい」

「いや、だから……」

「キスでもすると思ったかね」



 振り返りかけるのを抑えられ、後ろから抱きしめられた。前屈みの俺の肩に頭を乗せて、耳打ちする。



「あれは君がしろと言ったからだ。二度とするものか」



 身を固くした。男の考えているのは、会社での話だ。数日間にイロイロあったらしい二人組に、ハッパをかけてくれと言ったのは俺だった。


 軽い乱闘騒ぎで男が押し倒したのは、鈍臭い方のウサギだった。問い詰めてはいないが、俺の計画通りなら、彼はそいつとキスをしたはずなのだ。



「違う。別にそんなつもりで出て来たわけじゃ……」

「嫉妬じゃないのか。私は数日、気が気でなかったと言うのに」

「――――それって」

「綺麗な方にばかり構うから、君はてっきり彼に乗り換えようとしてるのかと」



 キスの味に酔いしれて、と囁く。


 チェシャ猫の狙いはアリスだったが。俺のデカイ口をあっさり避けたアリスは、キスに全く反応しなかった。やはりあいつもノーマルだからか。


 男が勃起するようになるまで、肌を合わせて一年かかった。



 俺がいまさら乗り換える?



「車じゃあるまいし」

「まったくだ。だが彼らは私より若い」

「見損なわないでください」

「娘に似ている方は男気がある」

「――――俺だって」



 君は可愛い、と首筋にキスを受け、もう我慢できなくなった。


 いつもの流れだ。またちょっとした性欲の処理を施されて、肝心の場所は宙ぶらりんで。それでもいいから付き合ってくれと言ったのは、自分だった。


 振り返って暴力的なキスで返す。ハラワタが煮え繰り返って、体格を武器に相手の高級なスーツを剥いだ。半ばのしかかるように壁に押し付ける。傍からではどちらが襲う方かわかるまい。


 それでも程なくして立場は逆転した。男の指が既に知っている俺の癖や、感じる場所を的確に当てていく。呼吸に余裕がないのも俺だ。壁に挟まれて華奢な肉体が暑そうだが、汗をかくだけで喘ぎはしない。引き寄せられ背中で壁を感じた。


 下着を割って入った指の動きに同調していると、もはやそのことしか考えられなくなる。俺は馬鹿猫だ。体だけでいい、それだけでいいと結んだ関係だった。それが辛い。




 今はすごく辛いんだ。




 マッドハッターはアリスを諭したが、三つの条件を俺にだけ言わせておいて――――他には何も。


 男の方からは好きだという言葉を、聞いたことがなかった。


 眼鏡が邪魔だと口で外した。しがみついてキスをして、追い立てられるままに喘いだ。


 欲しい言葉と違ったが、なだめるように彼は言った。今日は俺を味わうと。俺は違うと答えかけてやめた。



「なぜ泣くんだ」



 夢中で腰を馬鹿みたいに振っていたら、ちょっと傾いて俺を下から覗き込む。


 本気ですか、嘘をついてないですか、俺が欲しいんですか。と尋ね直した。



「俺を抱いてくれるんですか。女みたいに」






 あんたの前の奥さんみたいに、と言いかけた。






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