第15話(ケロ幕)

気がはやって、駅から店までガラにもなく走る。力任せにドアを開けると、ベルが揺れて大きな音を出し、客が数人こっちを向いた。

煙草をくわえて振り向いたマネージャーが、俺の顔を確認するなりにんまり人の悪い笑みを浮かべる。俺はつかつかとその隣へ腰を下ろし、すいません、ちょっと水を、とバーテンダーに乱れた息を整える合間で言った。

どーしましたオキャクサン、とマネージャーはフィルターを噛んだ口で笑う。しゃべるたびに煙草の先がぴょこぴょこ動くのに気を削がれた。ぐっと一息に水を飲み干して、俺はとうとう白状した。

あいつって、あいつが好きな相手って、もしかして俺なんでしょうかね。

マネージャーは、ハッと馬鹿にするような気が抜けるような息を口から漏らし、目を真ん丸くして笑った。なんだか、いつか見たアリスの映画のチェシャ猫に似ている。

そうかもしれねェよな、で、だったらあんたはどうするんだい、と逆に尋ねられる。それをどうして俺に言いに来るのかがわからないと言うが、煙草を灰皿に揉み消したってことは話を聞いてくれるのだろう。

俺は、このマネージャーとあの上司が、どうして上手くいったのか知りたかったのだ。告白はどうやったのか、結婚や子作りが有り得ない以上、何に目的や達成感を置いて付き合っているのか、セックスやキスって男同士でも重要なのか、とか。

小声ながら捲くし立てるように早口を並べると、マネージャーの方を向いていた俺の後頭部、つまり反対側から、感心感心とからかうようないい声がした。

ぎょっとして見ると、上司がそこに立っていた。なんだ、私だって酒ぐらい飲むぞ、と職場より柔らかい顔で笑う。部下がみんな書類を定時後に持ってくるから、いつもこんな時間になるがな、と結局は嫌味だったが。

君は、この実社会で同性愛者を自覚し行動することを、より具体的に考えているな、と褒められたんだかよくわからない感想を聞かされる。だって、実際問題そうでしょう、と返した。次の世代を育てるという生物の本分が果たせない。偏見の目で見られ、家族や友人からも疎ましがられる可能性は高い。打ち明けず生きていくにしても、それはとてつもない孤独との戦いだろう。

そうだ、普通はそういうことを考えるのだよ、と上司はウイスキーの水割りを口に含む。だが君の相手は、気持ちだけで突っ走っているな。あれは夢と理想と感情を原動力にしている目だ。おおかた少女漫画でも読んで共感にむせび泣いているに違いない。

むせび泣いているかは知らないが、奴は少女漫画を読んでいる。やはり上司は出来る男だった。読みが鋭い。

じろ、と横目でグラスを傾けるかっこいい姿を観察していると、上司は片頬で笑う。なんだ、ゲイ相手に流し目の練習かね、と冗談を言うが、気の利いた返事がみつからなかった。どうせ教えてくださらないんでしょう、とすねておく。あれが好きな相手は、もしかして俺じゃないかと思うんですが、と零した。確信が持てません、でも貴方は気付いていらしたとしてもおっしゃらないでしょうね。

当たり前だ、私は仕事でも事前に教えてやったりは決してしないだろう、と答えた声はきっぱりしていた。だが、君が不安を抱えつつも果敢に挑戦するというなら、アドバイスくらいはやってもいい。

君が待たねばならないのは次の三つだ、と指を三本立てる。

まず一つ、相手からのきちんとした告白。取引と同じだ、好きです付き合ってくださいという言質を取らねば始まらん。

次に、お願いするという姿勢。土下座が最も好ましいな。だがお辞儀くらいで妥協してやっても構わないだろう。

最後、三つ目。自分を一番大切だと思っているかどうかの確認だ。同性愛はリスクが大きいからな、相手が自分を手に入れたときに他の全てを失うかもしれないとわかっているかどうか念を押せ。

くれぐれも君から告白するような真似はするんじゃないぞ、と厳しい顔で睨まれる。隙を見せてはいけないぞ、君も男だからわかっているとは思うが、簡単に手に入ったものよりも苦労してやっと手に入れられたもののほうが男にとっては価値が高い。適度に焦らしてから捕まえられてやったほうが、後から大事にしてもらえる。

私のようにな、と笑った上司は、なんだか幸せそうだった。マネージャーがぶつぶつと、俺はまんまと策略にはまったんだよ、と顔を赤くしていた。俺もそれを見て、上司に笑い返す。

ああっ!とうるさい声がした。なんで、やっぱり仲良いんだ、とうろたえまくっているのは奴だ。落ち着いた状態でここで会うのは初めてかもしれない。こいつにこれから、俺は確信もないのに告白させなきゃならないのか、と溜息が出る。さっきゲイを相手に練習させていただいた流し目をさっそく使って睨んでみると、奴がみるみる赤くなった。

わかりやすい。確信してもいいかもしれない。

俺から言ってしまえば楽そうなんだがな。でも楽な道はリスクも大きいと先人が言うんだから耳を傾けておこう。ここは待ちの一手だ。俺は暴走しそうになる気持ちを抑え、拳を握りしめた。

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