第3話(ケロ幕)

大嫌いな上司に声をかけられた。一課のあいつがここのところ腑抜けているのは一体なんだ、と。

馬鹿の名前を聞いたら、耳が跳ねた。馬鹿の名前を口にしたら、頬とも唇ともつかぬ部分が熱を持ったように思えた。右の手首の内側も、じわりと痛む。思わず隠すようにして押さえた。

俺に訊くな、と思いつつ、ああ、どうも失恋らしいです、と答えた。上司は、社会人にもなって失恋か、と呆れたように云うので、かなり惚れ込んでいたようですから、と云い返す。

どうして俺があんな奴の弁護なんかしているんだろう。

上司の嫌味ったらしい無駄話からようやく解放されたのは、結局三十分後のことだった。せっかくの定時だったのに。あの馬鹿のせいである。

勝手に恋をして、勝手に失恋をして、だったら勝手に一人で孤独に打ちひしがれればいいのにわざわざ深夜にうちへ来て。

その上、酔って寝惚けたのか自暴自棄になっていたのか、この俺に、唇を、触れさせてきた。

また、口の端と手首が痛む。

なぜあんなことをしたのだろう。奴が恋い焦がれていた女の代用品などまっぴらごめんである。だが、冷静に考えてみれば、奴なりの強がりな冗談だったのかもしれない。だとしたら、あんな反応を返した俺を、奴はどう思ったろうか。軽くあしらって受け流すことができず、俺は固まるだけだった。かえって不自然だっただろうか。

……気付かれた、だろうか。

もしかして、それであれ以来声もかけてこないのでは。

職場での意気消沈した後ろ姿がまぶたの裏によみがえってきた。学期末試験の結果が散々だった時でもあんな暗い奴は見たことがない。それほどに引きずっているのか。せっかく俺が、疲れも眠たいのも我慢して一晩中の愚痴につきあってやったというのに。元気を取り戻すどころか、更に落ち込んで。俺を、女と間違えたりして。

またむかむかと何かが胸に込み上げてきた。ばかやろうと小さく声に出して云ってやった。電車がホームに入ってくる音で、誰にも聞こえやしない。

なんだか真っ直ぐ家に帰るのが嫌になった。一人だが、飲みにでもいってしまおうか。どうせ明日明後日は有給なのだし。

電車の風圧が、前髪を嬲る。俺は揺さぶられる視界を振り切るようにして、くるりと向きを変え、元来た階段を上り始めた。

駅の出口から国道とは反対の方向に路地を入り、しばらく歩くとガラス張りの近代的なビルが見える。正面口の脇にぽっかりと照明を落とした階段があるので、それを下りると目指す店があった。

実は今日まで一度も来たことなどない。ただ、奴がぺらぺらと嬉しそうに報告してきたから、道のりは一語一句違わず覚えてしまった。例の、奴を失恋させた歌姫が勤めるジャズバーである。

いい雰囲気の店じゃないか。なんだかそれを確認して厭になった。厭になっている自分が、更に嫌になった。

カウンターに腰かけて酒を注文する。普段あまり飲まないからカクテルなんてよくわからない。あまり強くないので、と云うと蝶ネクタイのバーテンダーっぽい従業員が笑顔でオススメでよろしいですかと答えた。適当に頷いて突き出しをつまむ。こういうところでは突き出しとか云わないのか。どうでもいい。とにかくその料理も上手かった。すぐに出てきた酒も、きつすぎず甘ったるくなくでちょうど良かった。本当にいい店じゃないか。なんだか悲しくなってきた。

周りを見渡すと、客もそこそこ入っている。うるさいということもない。店の良い点を一つ一つ数えあげている自分が惨めになってきた。俺は、ここの悪いところをほじくり出したいのだろうか。

でもどうせ、このぶんだと目玉のジャズだって最高なんだろう。最悪だ。

コップの中身を一息に飲み干して、美味しかったけど違うのください、とバーテンダーの目も見ずに云ったら、ご予算だけでも指定していただいたほうがよろしくありませんか、と苦笑される気配が伝わってきた。余計なお世話だ。失恋の自棄酒に、予算も何もあるか。

今日は給料日だったしカードもあるからなんでもいいです、と憮然と返す。かしこまりました、と冷静な答えがあって少し恥ずかしくなった。だいたいどうして俺が失恋の酒なんて飲まなきゃいけないんだ。失恋したのはあの馬鹿じゃなかったのか。

とにかくせっかくのジャズバーなのだから、一曲くらい歌を聞いてから帰ろうと思い、出された酒を舐めた。すこし舌にぴりりとした。喉の奥が痛んだのは、目の奥がツンとするのは、この二杯目のせいだ。

久しぶりの酩酊感を楽しんでいたら、突然右手首を掴まれた。ギョッとして、奴を思い出して、しかし掴んでいたのは奴ではなくて、腹立たしくて、何かを期待した自分がもっと腹立たしくて、その手を振りほどいた。無礼な見知らぬ男は、アンタまた、と云いかけてやめたようだった。俺はこんな目つきの悪い男にアンタ呼ばわりされる筋合いはない。

あれ、アンタ男か、とそいつは眼鏡の奥の抜け目なさそうな瞳をすがめて云う。訊かれなくても男だ。俺は女じゃないんだ、残念ながら。なんなんだ一体。

悪ィうちの姫さんと間違えた。それが男の言い訳であった。ジャズバーの歌姫、婚約を控えた奴の失恋相手と、よりにもよって間違えるなんて。第一男と女なのだし。悪ふざけでなければ下手な嘘としか思えない。

確かに正面からよく見りゃそれほど似てもいないんだが、店は暗いし、どことなく雰囲気と横顔がな、と言い募られる。男はいつの間にかカウンターの隣の席にどっかと腰を下ろしていた。俺は一人酒がしたいんだ。あんたの歌姫自慢なんか聞きたくない。だいたいこの男こそ何者なのだろう。もしや歌姫の婚約者か。

まさか、と男は眼鏡を拭きながらあっさり否定した。俺はここのマネージャーだよ。随分人相の悪いマネージャーだ。鋭い眼光に心の奥底まで覗かれているようで、居心地が良くない。特にこんなものを抱えている日は。

うちの姫さんはよく仕事前にここら辺で一杯ひっかけるんで、困ってるんだと男は笑う。アルコールは喉に毒だ。今日もまたか、と俺を見て早合点したらしい。

しかし横顔だけは暗がりで見るとなんだか似てる、そう男は繰り返して、感心したような溜息をついた。面白くなかった。なんだって云うんだ。そう思った瞬間、あたりが暗く、左後方が明るくなった。

ピアノの音。サックスの音。たゆたうような調べがしばらく続き、歌が聞こえてきた。俺はゆっくりと振り向く。舞台の中央には小柄で、少し丸めの、可愛らしい女性がスポットライトを浴びて立っていた。

ゆるく波打つ髪を顔の横で一つにくくって。ゆったりとしたロングドレスに身を包んで。ほんのりとした微笑を湛えて。音楽と戯れるように揺れながら歌うその声は、美しかった。

全然似ていない。

俺には長い髪も、柔らかな体も、優しい微笑みも、何一つない。あるわけがない。張り合うほうが馬鹿なのだ。悔しいと思うほうが間違っている。

ジャズの一曲は長い。間奏がめくるめく音の絡み合いを持って続く。歌が遊ぶ。俺は聞きながらいつのまにか、これまでの人生にないほど杯を重ねていた。

俺だって、歌は得意だ。声には自信があるのだ。英語の発音だって自慢じゃないが悪くない。この曲は知っている。

ふらふらと、気付けばマイクに近づいていた。歌姫から奪い取ってやる。満月みたいに優しい丸さの顔が一瞬驚いた表情を浮かべたが、続きを歌ってやるとすぐににっこりして飛び入りのボーカルさんに歓迎を、と店中を促した。客たちはつられて盛り上がり、はやし立ててくる。なんだその余裕綽々とした態度は。勝ったつもりか。見てろ。

俺は歌った。それはもう気持ちよく歌った。久しぶりだった。大きな声を出すとスカッとする。歌姫は俺の歌うメロディーにハモッてくれた。ピアノが、サックスが、ドラムが、クラリネットが、俺たちの歌を支えてくれる。俺の声と、歌姫の声が、混じり合って絡まり合って一体化したようだった。もし俺が歌姫で、ここに立って歌っていたら、奴は俺に惚れたのだろうか。馬鹿らしい。吐き気がする。

世界がひどくふわふわしていた。店に集まった酔っぱらいどもは優しくて、俺は特に野次を飛ばされたり水を注されたりすることもなく、結局最後までボーカルを務め上げてしまった。歌姫はずっと脇役に徹してくれていて、最後には温かい拍手などももらった。

ああ、いい店だ。いい女だ。あの馬鹿は、馬鹿だけれど、趣味はいいんだな。

上手くいったら、よかったのにな。

まだ少し吐き気はしたけれど、相変わらずふわふわいい気分のままカウンターへ戻る。もう一杯と呟いたつもりだった。まぶたが、重い。

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