第2話

 藤堂さん着いた、と一ノ瀬が脚を止めた。



「ね、帰りには甘味處でところてんを食べましょう」



 くるりと振り返り、僕のことを見下ろす。その顔に和坊の面影は無かった。一ノ瀬は、子供のときのようには笑わなくなったから。



「そんな金がないから、本を売らなきゃならないんだ」

「ううん。どうなのかしら。僕が売って来てもいいですか。一寸考えがあるので」

「早く返してくれないか」

「厭です」

「聞き分けのない――」



 一ノ瀬は鼻に掛けた小さな眼鏡を指で押し上げ、表情の見えぬ顔で言った。



「坂垣、藤堂さんの相手をしておくれ。自動車は目立つから、市場から出すんだ」



 傍らに止まっている車の中で、運転士が畏まりました、と返事をした。


 坂垣は、一ノ瀬の家に長くいる男だ。例の鬼瓦事件のとき、呼び鈴に気づいて真っ先に飛んで来たのが坂垣だった。一ノ瀬の送り迎えはすべて彼が任されていたのだ。


 店の番頭よりも、坂垣の方が一ノ瀬に信頼されていた。


 当時幾つだったのか知らないが、今の僕と変わらぬ年頃だったなら、すでに三十路は越えている。


 細身の体と精悍な顔つきはそのままに、鉄壁の無表情を崩そうとしない。


 手ぶらになった僕には、車の扉を開けることくらいできたのだが、彼は軽やかに外に出て、白い手袋を車体に滑らせた。


 僕は古書屋をちらと見たが、店内は暗いので一ノ瀬の姿は捉えることができない。


 溜め息をついて、促されるまま、炎天下より居心地の悪い狭苦しさに耐え忍び、中に入った。


 坂垣もすぐに戻ったが、左ハンドルなので右に座って頂けますか、と言った。



「顔が見えないと、話すときに落ち着かないので」



(主人と違い、可愛げのある男だなあ)



 口にしていないのに、憮然としたような沈黙が流れた。僕は袴を持ち上げ、指摘することはやめて、右に移った。


 野次馬を上手く掻き分け、車が走り出した。



「お幾つになられたのです」

「なんだい。昔のように話していいと何回も言ったろ」



 両親が同じく使用人だったため、坂垣は僕に敬語を使ったことはなかったのだ。一ノ瀬の家を離れると、自分によくしてくれた使用人たちはすべて態度を変えた。


 悪くなったのではない。いたわりを受けたのだ。しかし子供のときは、気の毒な他人に対する義理のように見えた。


 立場を選べぬ幼い者に、同情しているのだと自分に言い聞かせたのを、今だに覚えている。言葉の裏側を読めるほど、大人ではなかった。


 坂垣は前を向いたまま、鏡を見上げることもなく告げた。



「浪人なさったでしょう。学費を貯めるため、働きに出たと聞きました」

「人の話を聞いてないな」

「一年は出稼ぎに、もう一年は勉強に時間を使って、漸く国内一番の大学に通ってらっしゃる。だが専攻は」

「何が言いたい……」

「俳句だか私小説だかお書きになってるんでしょう?『蟋蟀』を創刊なさったとか」

「コオロギでなくカゲロウだ!」



 僕はハッとした。一体何処を走らせているのか、自動車は人通りの少ない見知らぬ通りを駆けている。


 暑さに首から垂れた汗が、蒸発せず着物に染み込んだ。



「何故知ってる?文藝『蜉蝣』のことを」



 此処にございます、と分厚い和綴じを渡された。思わぬことに、頭をのけ反らせる。



 表紙の印字に、蜉蝣・神無月とあった。



 誰がこんなものを、と慌てふためき体を乗り出す。坂垣は僕の手に本を乗せ、素知らぬふりでまた前を向いた。


 『蜉蝣』は、僕が苦学をしていた時期に同じ文芸仲間と立ち上げた季刊同人誌である。


 神無月とあるので、秋の号だ。結局三ツほど詩文を寄稿しただけで、次の号を出すほどには売れなかったのだが。


 坂垣は感情を込めずに口にした。



「うちの坊が欲しいと言うので、私が購入しました」



 これが出たのはもう二年も前のことだ。頭を下げて書店の隅や、よく売れる本の下へ、台替わりとして置いてもらったのである。


 そのころ、僕と一ノ瀬の付き合いはぱたりと途絶えていたのだが。受験をするのに資格がなく、推薦状が役に立たないので困り果て――――出自を証明してくださいと、あの家を頼る羽目になってしまった。


 春になって、久方ぶりに顔を近くで見たのだ。


 線の細いのはそのままに、タッパが伸びて最初は誰だかわからなかった。泣いたり笑ったりの激しい気性がすっかりなりを潜め、骨格が変わり大人びた表情の男になって。


 僕は一ノ瀬の何がそんなに昔と違ってしまったのか、まだわからなかったのだが。


 今は想像がついてしまう。


 隣は竹藪で塀の高い、急なでこぼこ道に差し掛かり、坂垣が道の脇で車を止めた。



「文学に興味があったのに、なぜ帝大を選ばれたのか、私にも理解できないんですが」



 僕は農学部を専攻していた。関係ないだろうと口にすると、坂垣が溜め息を吐く。


 坊を追って行こうと思われた?と。小さな声で囁く。違う、と気色ばんだ。それでも、


 一ノ瀬と同じ立ち位置に戻れば

 同じ景色をもう一度見えるかもしれぬと

 そう考えた他は






 他は確かにどうでもよかった。







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