大正浪漫記譚

@eika601601

第1話

 一部の金持ちと奨学金を取った学生だけが、帝国大学の入学資格を得た。


 僕は飛び抜けて頭がよかったので。欧米の文学で勉強して、いずれは物書きになろうと夢見ていた。


 入学後も、人に教科書を貸してもらい、いまどき行灯の燭びでそれらを書き写し、親父に油が勿体ないと殴られ。弟妹を腹と背の両方に括りつけて、本を読んでいたのだ。


 家が貧しかったので、幾ら秀才でも金はかけられんと父親が言ったせいもある。


 教師の強い説得で受験は果たしたが、半月で、学費の調達がままならなくなった。



「藤堂さん、大事ないですか」


 己の待遇は昔から。


「顔色が悪いですよ。少し休みましょう」


 こいつとは違いすぎやしないか。


「日蔭が向こうに。さ、もうちょっと」


 お坊ちゃまめ。



「おぶって欲しいんですか?しょうのない人だなあ。おい、坂垣。車を停めろ」

「……自分で歩く」



 そう答えた途端、辺りの風景がぐらりと傾いだ。一ノ瀬は、ごついアメ車を路上に停めさせ、運転士に扉を開けてもらうのを待たずして、颯爽と表に飛び出す。


 道の向こうで女学生が頬を染め、アイスクリィムを頬ぺたにつけた。

 郵便配達員が自転車から転げ落ち。

 薬屋の婆が口を開けすぎて入れ歯を落とす。


 何処からともなく溜め息が洩れた。


 一ノ瀬和馬は、黒髪を後ろに撫で付け、気取った鼻眼鏡に、茶の上下を着こなした、所謂る美男子である。睫毛の縁取りと額との隙間が殆ど無く、彫りの深い、シネマに出てくる役者のような出で立ちだ。


 僕の前で驚くほど長い胴体を屈め、両手六ツの紙袋をすべてぶん取ると、さらに長い脚を定規のように出して、歩き始めた。



 ――冗談じゃない!



「待て。全財産なんだ。気安く扱うな」

「どちらに向かわれるのかまだ聞いてない」

「き、君には関係無いことだ」

「金貸し屋なの?」

「……言い方が浅ましいぞ!古書屋だ」

「では、親切丁寧な質屋ですね。僕が幼少から貴方にあげた蔵書を安価で売り払って、金が出来たらまた買い直すつもりでしょう」

「今度は『買い直す』部分がないだけで、おおかたその通りだ……」



 ほらやっぱり、と一ノ瀬は抑揚のない声で言った。僕は彼の後ろ姿を追うのに必死だが、歩調を弱める気はないらしい。


 歩くたびに周囲の店や外で、歓喜とも雄叫びともつかぬ叫び声が聞こえてくる。


 それもそのはずであった。


『一ノ瀬と歌舞伎座を散歩すると、誰も非番の役者を見ようとしない』だの。『一ノ瀬が夏場の河で水遊びをすると、女性の絹を裂くような悲鳴で蝉の鳴き声が掻き消される』など。


 数々の伝説がこの男にはある。



 一ノ瀬は洗練された容姿をしていた。



 僕のような円く分厚い黒縁もいらず、紙石鹸で洗われたのだろう艶やかな黒髪を持って、日本人離れした長い脚をしている。老若男女問わずに岡惚れされるのを、子供のころから傍で見ていた。


 僕の両親は彼の家の、料理人と、お女中だったのだ。


 一ノ瀬家は、明治維新より前から続く、名の知れた呉服問屋だった。


 彼はそこの跡取り息子で、昔は体も細く小さく、女の子のようなナリをしていた。僕は二ツ早く生まれていたから、気弱な坊ちゃまを坊ちゃまと呼ばず、親の目を盗んでは一緒に遊んで、彼に力の差を教え込んだ。



(はじめさん、やめてよう。怖いよう)

(美津子と治郎にドングリ食べさせたいんだ。早くしろよ)

(厭だあ。はじめさんがお兄さんなんだ。はじめさんが取って!)

(女って言われたくないんだろ。ほら。落ちたら受け取めるから)

(嘘だあ。逃げるんだあ!)

(逃げない。和坊、取れ。できなきゃ近所の餓鬼どもに馬鹿にされたままだぞ)

(――逃げない?)

(逃げないよ。逃げるもんか)



 一ノ瀬は、もう一人の弟みたいな存在だった。母親が病死し、思い出に耐えられぬと父が私たち兄弟を連れて、一ノ瀬の家を出るまでは。


 その後、僕たちは天と地ほども差のある暮らしをしながら。



 互いに別の道で大きくなったのだ。



 一ノ瀬が九ツのとき、彼の通う空手道場を訪ねた。本当は油を売っている場合では無かったのだが。


 ちょうどそのころ、流行り病で弟が熱を出していたので、無性に気になった。ちょっと様子を覗いて脅かそう、くらいの気持ちでこっそり道場を覗くと、


 鬼瓦そっくりの空手教師と二人きり。裸に剥かれ、蛙のような格好をさせられている一ノ瀬を見つけた。


 状況の意味はわからなかったが、背筋がぞっとして、反射的に動いた。


 咄嗟に入口近くの道場の呼び鈴を派手に掻き鳴らし、鬼瓦が慌てふためいて下穿きを上げた瞬間を見計らい、顎を目掛けて、手持ちの風呂敷包みを力いっぱいぶつけた。


 鼻血と白いものを盛大に噴いて、鬼瓦はゆっくりと後ろに倒れた。


 赤い血の洗礼を受けながら、一ノ瀬と僕は、さながら茫然自失の状態であった。二、三年振りだったのに、再会を喜ぶどころではない。


 人が集まって聞いたところによると、死ななかったのは鬼瓦が鬼瓦たる由縁で、通常の日本男子の二倍は首が太かったから、命拾いしたのだった。


 流石に前歯は全滅したらしい。


 ――風呂敷の中には氷屋の使い走りで、運んでいる最中の氷の塊が入っていたのだ。


 駄目にしてしまった氷が一銭の価値もない水に変わり、駄賃を得られず一人木陰で泣きじゃくっていた僕に。庶民には手に入れることはおろか、見ることすら叶わぬ本をくれた。それが。






 いま、僕の目の前を歩いている男なのである。






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