伊勢カニ転生

ほしがわらさん

第1話 王様の記憶



我が学友であり、優秀な海軍将校でもあるネロの愛船「カニクイザル号」は、誰もいない大海原の上を、ゆっくりと進んでいた。アドリア海を出てからおよそ3日目、いや、四日目だったろうか。


私は朝から晩まで甲板のハンモックに陣取って、ラム酒を飲み続けるのに忙しく、日付や方向のことはネロに任せっきりだったから、記憶はあまり定かでない。私が覚えている中で一番確かなことは、私がその船の誰よりもぐでんぐでんに酔っ払っていたということ、それだけである。



***


 私のたるみきった腹の上では美しい私の猫、キッド船長が、その真っ白な腹を上下させてクウクウ眠っていた。彼は長毛種の野良猫であった。汗に濡れた手のひらで撫でると、柔らかな毛がごっそり抜け落ちた。

 

波はゆりかごのように船を心地よく揺らしていた。私は全ての雑多な公務ー宮中晩餐会、国賓の接待、それに毎朝のお上品なティータイムや退屈な会議、そういったものから解放されてせいせいしていた。



***


横ではお目付役の老家臣ボンドがしかめ面で立っていた。長いローブを羽織り、床まで付きそうな長い髭を撫でながら、海鳥のようにつぶらな瞳で、茫漠たる海の、あっちやこっちを睨みつけている。その姿には雲ひとつない晴れの日にもかすかな雨の予感を探すことをやめられない、気難しい気象学者のような雰囲気があった。彼は時折見張り台の上の水夫に向かって、海賊旗には気をつけろよと繰り返した。

 

 しかしそのたび水夫は、すっかり酒に酔った赤ら顔で、へーい、とバカにしたような返事をしては、望遠鏡代わりにラム酒の空き瓶を覗き込んで見せるのだった。

 散々繰り返されたそのやりとりのせいで、ボンドの足元には、苛立ちによってかきむしられた髭のクズが散らばっていた。



***


私にだって、ボンドの気持ちは、わからないでもなかった。夜明けに許可もなく王宮を飛び出し、勝手に海へと逃げ込んだ私の無責任さを、彼は許せないのに違いなかった。

 

 だがこの無鉄砲でのんきな船旅は、ネロが言うところの、「ちょっと神経がやられ気味の」私にとって、なくてはならぬ息抜きだった。私はこの旅を提案してくれたネロに感謝していたし、公務をほっぽり出して半ば強引に宮殿を飛び出してきたことを、かけらも後悔してはいなかった。だから私は彼の存在など気にせず、思いっきり楽しむ心づもりであった。



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