猫と化け猫と男一人
刻露清秀
本編
「吾輩はホクロの父親である。よって息子と暮らしたい。佐伯殿、悪いが、吾輩をここで飼ってくれないだろうか」
よく晴れた日曜日。ゴミを捨てようと、アパートのドアを開けると猫がいた。ホクロというのは僕の飼い猫で、黒猫で、保護猫なので正確な年齢はわからないものの、長いこと一緒に住んでいる。
ホクロの父親を名乗る不審な猫は、サバトラで尾が二つに割れた猫だった。ホクロの父親ということはそこそこの老猫なのだろうが、そんなふうには見えない。いや、日本語を喋っている時点で、おかしいのだが。
猫の話を信じたわけではないのだが、ホクロの様子を確認すると、ホクロは一声
「にゃーん」
と鳴いた。ホクロは大人しい猫で、鳴き声は滅多にあげない。まさかな。
四十六歳独身一人暮らし。貯金はそこそこあるし、猫一匹増えたところで困らない。だけど……
「お引き取り願います。俺はホクロで手いっぱいなので」
怪しい猫の鼻先で、僕はドアを閉めた。だって嫌じゃないか。喋る猫とか。
「な、吾輩がこんなに頼んでいるのに!」
いや、態度でかかったぞ。
「やむをえまい。最終手段を取ってやる」
ボフン、とアニメで煙が上がる時のような音がした。
「
先ほどの声が、やたら猫撫で声で喋っている。泣き落としか? 猫の猫撫で声というのもおかしな話だが。ドアスコープから外を覗くと……。
そこには全裸の美青年がいた。
ざっくりいって灰色の髪に黄色っぽい茶色の瞳。先ほどの猫と似ていないこともない。何より声が同じだ。猫っぽい全裸青年は大声で
「あの暑い夜を忘れたの〜」
などとのたまっている。冗談じゃない。今日は日曜日。ここはアパート。ご近所さんはだいたい家にいる。気が付かれたらなんて思われるか。不審者に絡まれている、と事実を理解してくれるとは限らない。これじゃまるで僕が、歳の離れた恋人を全裸で放り出す外道みたいじゃないか。せっかくのペット可の優良物件を、こんなことで手放してたまるか。
僕は青年の腕を掴んで、家の中に上げた。
「わかってくれて嬉しいぞ、剛」
色々と言いたいことはあったはずなのに、僕の口から出てきたのは
「何で俺の下の名前を……」
なんて間抜けな質問だけだった。
「ホクロが教えてくれた」
青年は涼しい顔でそう言って、猫の姿に戻るとホクロと体をこすりつけあっている。僕はもう諦めることにした。
「猫くん、名前は?」
「まだない」
「へ?」
「
なんて紛らわしい名前だ。
こうして、僕と猫と、キテレツな猫(?)の共同生活が始まってしまったのだった。
※
始まってしまえば、名威との共同生活は、そこそこ楽しいものだった。朝、僕が仕事に行ってから、名威は人間になって家事をする。これは名威の提案だ。名威は人間の知識が大好きで、いつでも本を欲しがった。本を買ってくれるなら家事をしてくれるというので、その提案に乗ったのだ。
全く期待していなかったが、誰かが食事を用意して待ってくれている、というのは嬉しいものだ。だんだんと腕を上げる名威に、弱竹輝夜先生の本を買ってあげると、喉を鳴らして喜んだ。
「この作家は腕がいい。令和の紫式部と言われているらしいが、吾輩に言わせれば女漱石と言ったところだな。近代小説としての素晴らしさにもっと着目するべきである」
もう一つ嬉しかったことは、一日にあったことを、報告しあう仲間ができたことだ。ホクロが言っていることも、名威を通じてわかるようにわかるようになった。僕の職場の話も、名威とホクロは聞いてくれた。名威の話は、忍び込んだ大学での講義やら読んだ本やら、難解なことも多かったが、聞いている分には楽しかった。
そんな日が続くと思っていた、ある日のこと。日課の腰叩きで恍惚としていた名威が、こんなことを口走った。
「しかし剛。君は
問い詰めると、名威は白状した。
自分はホクロの父親ではないこと。ベランダにいたホクロとたまたま知り合い、僕を心配するホクロの計らいで、不老不死の名威が家に転がり込んだこと。ずっと前に飼い主の元を去ってから、ずっと野良猫の名威は、手頃な飼い主が見つかった、と喜んだこと。僕は悲しかった。僕があんなにも楽しんでいた生活を、ホクロは、名威は、憐んでいたのか。特に名威は、ただの雨宿りくらいにしか思ってなかったんじゃないか。
「ホクロを責めないでやってくれ」
「ああ、そうだな。名前もない化け物を呼び込んだこと、責めないよ。ホクロは猫だもんな」
ちょっとした仕返しのつもりだった。名威が本当は名無しで、元の飼い主に名前をつけてもらっていないことは、会話の節々から察していた。ホクロの名前をつけた時のことを、何度も何度も尋ねるからだ。
てっきり怒ると思っていた名威は、しゅんとしょげたまま呟いた。
「この間話した大学の院生がな、ほら、
「じゃあ、その子の家に世話になるといいよ」
「……そうだな」
ドアを開けてやると、名威はトボトボと出て行った。ホクロは自分のベッドに潜り込んで、出てこなかった。
※
翌日。年甲斐もなく怒りすぎたと反省はしていたものの、どうすればいいのかわからず、気もそぞろなまま職場に行った。
僕の事務所では休憩スペースのテレビがつけっぱなしになっている。お昼休みにこんなニュースが飛び込んできた。
「今日午前零時ごろ、道端で猫に危害を加えたとして、東京都新宿区に住む藤ヶ谷文香容疑者、二十三歳を逮捕しました。藤ヶ谷容疑者は『この魔法少女の体は乗っ取った、無垢な魂をからなければならぬ』など意味不明な供述を繰り返しているそうで……」
途中からキャスターの言葉が耳に入ってこなくなった。零時、猫、危害。僕が名威を家から追い出したのは、そのくらいの時間じゃなかったか。居ても立っても居られなくなり、僕は初めて会社を早退した。
大学、古本屋、たまに賽銭をネコババするという神社。名威が行きそうなところは全て探した。真っ青な顔で、ない、ない、を連呼する中年男性に、世間は意外にも優しく、腰まであるポニーテールの女性探偵が、熱心に手伝ってくれた。だが、名威は見つからなかった。
「一度、家に帰ってみたらどう? 猫ちゃんは案外フラッと帰ってくるから」
「そうします、えーと」
「
「銀音さん。ありがとう」
探偵の名刺をもらう、という変わった経験をし、足取り重くアパートに帰ると、ドアの前に誰かいた。
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
「名威!」
「ひどい顔色だな」
名威は人間の姿だった。よく見ると服は僕が朝、ベランダに干しておいたものだ。小柄な名威にはサイズがあっていなかった。
「あ〜。昨夜は悪かった。東海林の話は口から出まかせだ。彼は吾輩の観察対象で、いいやつだが、名前を知っているだけでそこまで親しくはないのだ。ああいえば引き止められるかと思って、つい。あと服も勝手に借りて悪かった。……ごめんなさい」
「僕のほうこそ……」
「いやいや、イマドキの若造に失礼なことを言った吾輩が悪かったのである。結婚するか、しないかなど、個人の自由だ。吾輩はどうも考えが古くてな」
「若造って、僕は四十六歳だけど」
「吾輩の半分以下だな」
名威ってかなり年寄りだったんだな……。僕の倍で九十八歳で、それ以上だから、もしかして百歳超え? 当時の考えだと、そりゃ僕は変な人間だろう。でも僕が傷ついたのはそこじゃなくて……。
何から言えばいいのか、僕がまごついていると、名威は僕に屈むように促した。
「仲直りのhugをしよう。吾輩は剛と暮らせないと寂しい」
抱きしめられた名威の胸元からは日向に干した布団のような、でもちょっとだけ、獣の臭いがした。なぜかネイティブ発音なのは気になったけど、気恥ずかしさが薄れたのはいいことだ。
「名威」
「ん?」
「名前のこと、ひどいこと言ってごめん。名威が、僕が可哀想だから一緒に住んでくれてるのかと思って、悲しかった」
「憐れんでなどいないぞ。吾輩もホクロも。剛はいい家族である。かけがえのない家族だ」
「ありがとう」
鼻の奥がつんとして、僕は名威の薄っぺらい背中に手を回した。……そういえば日向に干した布団の臭いはダニの死臭だって、名威が言っていたような。風呂嫌いだって言ってたけどトリミングした方がいいかも。
「剛、苦しい」
「ああ、ごめん」
名威は猫の姿に戻った。あーあ、服を散らかしてくれちゃって。
「名前のことだがな。剛がつけたいのなら、つけてもいいぞ」
「へ?」
期待の眼差しでこちらを見る名威。まさかそんな展開になるとは思わず、焦ってしまった。
サバトラで、尻尾が二つで、百歳ぐらいで、喋って、偉そうで、博識で、でもなんか抜けてて、それで……。思いつかない。というか、ハードルが高すぎる。今更『名威でいいんじゃないかな』というのも、ガッカリするだろうし……。
ホクロの名前だって、クロが入る名前を考えてて、それで考えついただけだしなぁ。いや、でも、案外毛色から入るぐらいの気軽さの方がいいかもしれない。そうだ、サバだ。サバオ、サバゾウ、オサバ、サバノスケ。サバ、サバ、サバ……。
「し、シメサバ」
「却下だ馬鹿者」
シメサバ、ではなく名威は、一転して冷たい目でこちらをみている。
「まあ、いい。吾輩ちょっとやそっとのことでは死なないし、剛もまだまだ生きるであろう。くたばるまでにいい名前を考えられたら、褒めてやってもいいぞ」
偉そうなんだよなぁ、と思いつつも、すっかり慣れてしまった名威の声を聞きながら、僕は我が家へ帰った。
「にゃーん」
ホクロが甘えた声を出しながら、僕の足に擦り寄ってくる。
「ホクロ、今日はいろんなことがあったよ。初めて早退したり、探偵に会ったり……心配かけてごめんね。そうだ、今度、新しい味のかりかりを買って来るよ。たくさん食べな。……じゃ、僕はカレーにでもしようかな」
「吾輩が振る舞ってやろう」
「手伝うよ、玉ねぎが口に入ったら大変だし」
「吾輩は玉ねぎになど負けん!」
「いや普通に危ないから……」
僕はため息を吐く。疲れたわけじゃなくて、あんまり幸せで。
僕の家族は、大失恋の後、癒しを求めて猫を飼い始めた猫と、転がり込んできた変な猫。孤独死するんじゃないか、なんて不安に思ったこともあるけれど、この我が家があるかぎり、僕は大丈夫だ。
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