第2話 子獲り騙りの復讐・後編

 よく磨かれた黒い革靴が、石畳に堆積したごみを踏みしめた。ともすれば獣の糞便などにも足を滑らせながら、その持ち主たちが裏路地を駆けていく。掲げたランプは揺れに揺れて路地裏の暗闇を掻き乱し、裏道をむしろ見にくくする。逃走者たちの肺は一息ごとに横隔膜を毟られるように痛んで息切れも近いはずだが、一足でも、少なくとも共に走る彼よりは繁華街の大通りへ近付きたい、とばかりに必死で足を動かしていた。

 彼らの背後では警笛と若き道楽探偵たちの呼び合う声が響いている。裏路地の通りを二つ三つ挟んで、まだ遠くはあるが、彼らの後を追ってきていた。けれど、彼らが背を向けたいのはそれらではない。男たちは犯罪者たちの元締めである。この界隈で増えた人攫いの胴元であり、さらった子どもを他所へさばくも、身代金を求めるも、彼らの一存で決められていた。

 さきほど警官や道楽探偵たちに根城へ踏み込まれたものの、幸いなことに彼らだけは顔を見られていない。どこか適当な隠れ家で一晩明かすか、あるいは居宅へ帰りつく……そうすれば彼らの今後は保証され、明日からも同じ仕事で稼げるはずだった。

 乗り込んできた敵が皆、銃や壁で防げるものならば、の話であるが。

 宿屋や飲食店の裏通り、乱雑に置かれた木箱に脛をぶつけながら曲がった角の先に顔を向ければ、果たして月明かりの注ぐその小路の先にこそ、ガス燈輝く大通りが見えた。

 男たちは荒い息の合間に耳を澄ます。追跡者たちの足音は遠い。なにより恐るべき追手の笑い声もない。振り切ったものと見て、乱れた上着と髪を直しながら逃走者たちは月明かりの中に踏み込んだ。

 その頭上で、乾いた破砕音が響く。

 見上げた先から降り注ぐのは割れた瓦。破片で視界を奪われる前に、男たちは屋根の上に蜘蛛を見た。遠景にしても巨大な、目の前にしたなら人の背丈など越えるだろう大蜘蛛だ。二対の脚で屋根を踏みしめ、膨れた腹が背後でゆらゆら揺れている。大蜘蛛は前脚でもって雨樋を掴み、勢いよく路地の外壁を滑り降りてきた。

 降り立った大蜘蛛が後脚でもって直立する。

 ……否。

 男たちの前に立ち塞がったのは、歪んだ体躯の青年だった。両腕が、脚が、それどころか腿も足すらも、部位ごとに別人のを継ぎ足したように大きさが異なるのだ。爪先立ちと言えるほど踵の高い靴を履いた両脚でもって、石畳に針を刺すがごとく立つ。

 その痩躯を支えているのはいびつな二本の脚に加えて、自身の体躯より長い杖だ。ガス燈の点火棒にも似た杖の先端には、子どもが三、四人は詰め込めそうな籠が下がっている。蜘蛛の腹部と見えたのはそれだったのだ、と男の一人がひととき放心した。

「僕の名前を盗みましたね」

 青年が、〝鳥籠ジャック〟が一歩、踏み出す。

 「どちらが盗んだんでしょう。あなた?それとも」

 あなた、と言うたび、距離が詰まる。一歩ごとに杖の石突……否、東洋の薙刀のごとく先端に取り付けられた片刃が、耳障りな音を立てて石畳を削った。

 「同じだろう……どちらでも、お前には……」

 男のかたわれが懐に手を入れる。青年との距離は杖一つ分にも縮まっていた。銃であれば外さない距離だとグリップを握って、けれど。

 「同じではないんです」

 青年の杖が籠ごと回る。石畳に火花を散らし、車輪のように一回り。杖の長さはそのまま間合いに変わり、懐に手を入れたままの男の体を鳥籠でもって潰していた。横転する馬車さながらの音に大通りの人々が辺りを見回すが、月明かりより明るいガス燈の下からでは、裏路地の暗がりなど見通せようはずもない。

 したたかに体を打ちつけた男は白目を剥いている。掌ごと懐から溢れた銃は手指がからんだままへしゃげていたから、傍らのもう一人が拾ったところですぐには使えないだろう。

 化け物め、と男が〝鳥籠ジャック〟を睨みつける。何が〝僕の名前〟だ。

 「人買いを真似たのがお前だろう。とことんまで邪魔しやがって……!」

 抜いたナイフは虚勢と同じで、牽制のために構えたに過ぎなかった。それを見抜いて〝鳥籠ジャック〟が鼻で笑って杖を回す。彼が軽々と回しても、当たれば警棒で殴られたようなものだ。男の手の甲ごと跳ね上げられて、ナイフが高く宙を飛ぶ。

 「まるで分かってない。僕はね、金のために人を攫ったことなんてありませんよ」

 自分のためではあると青年が言った。こんな体で浴びる喝采、その価値が分かりますか。

 「カカシみたいなヘボ役者でも、大都市の威光を借りればこの通り、市井の人がその日暮らしの不安をひととき忘れる話の種にもなれるのですよ」

 男の胸を杖で小突けば、その体も石畳にへたりこむ。彼の喉元に切先を突き立てて、分からないから盗ったんでしょうね、と〝鳥籠ジャック〟が笑った。

 「これからも貴方のような方が出るでしょう。人の気も知らず、当たり役を掠め取って泥を塗る。許し難い話です。だから訊いたんですよ。どちらが盗ったのか、見せしめになるべきはどちらなのか……」

 青年のヒールが男の上着を踏みつける。昆虫標本さながらに石畳に縫い付けられた彼に、さながら大蜘蛛のように覆い被さった。

杖と二本の脚で体を支え、青年が懐に手を差し込む。見せつけるように取り出したナイフを振りかぶって、しかし。

 「〝鳥籠ジャック〟、そこまでだ!」

 年若い、けれど堂々とした声がその手を止めた。

 〝鳥籠ジャック〟が緩慢に目を向ける。目の前に立つのは六、七人の少年少女だ。子どもというには立派な背格好で、ジャックよりは年若く、いとけない。そして何より彼らは、活気と利発さに満ち溢れた、一度見れば忘れ難い目をしていた。杖を構えたままの青年の口元が、左右に裂けたように吊り上がる。

 「お早いご到着ですね、探偵どの」

 「それはそうさ!」

 慇懃な挨拶に元気よく返すのは、モスグリーンのドレスの小柄な少女だ。

 「お見通しなんだよ、彼らが〝ジャック〟でないのも、君が偽物にお怒りなのもね」

 胸を張る彼女の横で、黒い燕尾服の青年が鞄を探った。取り出したのはボウガンだが、はなから抜け出すつもりだったとはいえ、夜会にも持ち込んだのだろうか。ばねを軋ませて装填された矢を前に、ご慧眼ですね、と〝鳥籠ジャック〟は鼻で笑った。それで?

 「この後はどうするつもりです。今日の僕は何もしていない。ちょっと無礼者と行き合って、その始末をつけただけですよ。それでも、人攫いだからと捕まえますか。……捕まえられますか?探偵どの」

 くつくつと笑うその背後で、高らかに警笛が鳴る。その瞬間、〝鳥籠ジャック〟の頬が引き攣った。振り返らずとも、大通りに面した小路から警官隊がなだれ込むのが足音で知れる。

 最初に彼を止めた青年が一歩踏み出した。黒髪に切長の青い目をした青年だ。決着をこの状況に見てとって、彼の頬にこそ笑みが浮かぶ。倒れた男たちに振るわれた杖や籠を前に、少年少女はしかし、怖気付く事なく〝鳥籠ジャック〟の行手に立ち塞がった。

 「どうする、〝ジャック〟。逃げられるかい。逃げてみるかい?宙を飛ぶかな、それとも壁でも登るかい。その重そうな籠を背負って……」

 知っているのだ。〝鳥籠ジャック〟は子どもに手をあげない。その行手を阻んだとして、決して傷付けるわけがないのである。

 〝鳥籠ジャック〟が彼らを、そして背後の警官隊を交互に見る。そうして探偵たちの筆頭を務める青年を見つめ返した。〝鳥籠ジャック〟が笑い出す。高い踵が二度、火打石のように石畳を叩いた。探偵の一人がボウガンの引き金に指をかけたその瞬間、〝鳥籠ジャック〟が跳ぶ。石畳を蹴り、あるいは杖を支えにかたわらの木箱の山を駆け上がったのだ。踏んだ側から雪崩れる木箱に呑まれかけ、走り寄った警官隊が悲鳴を上げた。小馬鹿にしたような一瞥を寄こしながら、"鳥籠ジャック"は窓枠や雨樋を足掛かりに、あるいは壁を歩くようにして上へ、集合住宅の屋根へと逃れたのだった。ボウガンも銃も易々と届かない階上で、〝鳥籠ジャック〟が高らかに笑う。カーテンコールの俳優さながらに両手を広げ、一礼。半月ながら煌々と照る月を背後に、声を張り上げる。

 「どうでしょうね、探偵どの!ご希望通りの壁登り、お気に召したら、どうぞ拍手をいただけませんか」

 また、〝鳥籠ジャック〟が哄笑した。見上げた少女探偵が幼稚な悪態をつき、ボウガンを下ろした青年が眉を顰める。けれど、屋根に立つ彼と視線を合わせた探偵筆頭の青年だけは、友人達に見つからないよう半歩下がったところで口の端を吊り上げていた。その彼の両掌が緩慢に持ち上がる。そうして〝鳥籠ジャック〟の望むままに拍手を返した。

 「全く、してやられたよ、〝鳥籠ジャック〟!だが、今回だけさ。次に相見えたら……!」

 線路の果て、下水道の終わりまでだって追いかけてやる。そう続ける青年の言葉に、ほかの探偵たちも声を合わせた。楽しみにしましょう、と〝鳥籠ジャック〟が応える。それならば。

 「今夜はお暇させていただきますよ。警官さんたち、あなた方にこの身を譲る気はありませんから……追うなら、どうぞそのおつもりで」

 高笑いとともに屋上を駆け出した〝鳥籠ジャック〟を慌てて警官隊が追い始める。徒歩で路地に駆け込み、あるいは大通りに留めていた馬を駆るが、けれど壁も道もない空の下を行くのに比べて、どれほどのものなのだろう。汽笛や蹄の音に高笑いが紛れるのに耳を澄まして、帰ろうか、と探偵少年の一人が口にした。

 そうだね、そうしようか、と探偵たちが顔を見合わせて、けれど名残惜しげなその背中を、あの探偵筆頭の青年が押した。

 「また〝ジャック〟のやつを追うために、英気を養っておかなきゃな。さあ帰ろう!今日はもうお開きだ!」

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