感覚が消えた日

海月^2

感覚が消えた日

 一息。二息。三息。吸って、吐いて、吸って、吐く。息を、吐瀉物を、血を。気道を焼く呑酸は暴力装置だ、きっと。きっと私を苦しめる為に其れは存在する。

 清潔に取り換えられ続ける布団。綺麗に保たれる体。私の臓物はあんなにも汚いのに不思議な気分だ。そしてその汚い血を綺麗に保つために血漿交換を続けている。血液だって限りあるものなのだから、既に余命宣告されている人間よりも他の治る希望のある患者に回すべきだと思う。だが、どうもそういう訳にはいかないらしい。

 管を満たす赤い血を霞がかった視界に入れる。私は数日前から遂に満足に物を見られなくなり死へのカウントダウンを感じていた。それを怖いと思うこともなく、ただ一人病室で寝ている。家族は症状が末期に近づくに連れて病室には来なくなった。一日一通、メッセージが届くだけ。強いて言うならばそれが寂しくて、この世にやり残したことの気もする。でも、どんなに足掻いても最後が変わることはない。だから私は最後の時を待って息をしているのだ。

 余命宣告をされた人間の行動は大抵二種類に分けられる。残りの人生を全うしようとする人と自暴自棄になる人だ。私は比較的後者に当てはまる。勉強も辞めたし、楽しくないのになぜか辞められなかったゲームも辞めた。要らないものから省いていって、そして人生が冷たく痩せ細っていくことを感じた。こんなにも面白みのない人生だったことに、死ぬ間際になって漸く気づいた。

 看護師が病室に入ってきて食事を用意する。細い腕を上げて一口ずつ口に運んだ。筋肉の落ちた体に味のしない病院食が入ってくる。相当ふやけて柔らかくなったお粥だ。きゅうとしまった喉に柔らかい米が落ちていく。

 唐突に湧き上がってきた呑酸を吐いた。堪えたけれど、それは食事に掛かってしまった。

 明るい茶色で糞便の匂いがするそれは、私の体調の悪化を示していた。大腸の閉塞、通常の病気ではありえないほどに全身が病に犯されていた。

 ナースコールを押そうと手を伸ばすがぼんやりとした視界ではなかなか上手くいかず、三回目くらいで漸く看護師を呼べた。

 何事もないかのように振る舞った看護師はどこか苛立ちを纏っていた。そんなものだと思う。私はトイレや風呂、ベッドから起き上がることすら一人で出来なくなっていたから、ナースコールを押す回数が他の病室に比べて多かった。交代などで忙しい時間にも構わず押してしまうので、思うところはあるのだろう。それでも、私は食べて排泄をして寝る。生きるために最低限必要なものをこの状態になっても辞められないでいた。いっそそんなもの捨ててすぐにでも死んでしまえたら楽なのにと思った。けれど、人の体は生存を望むように作られていた。それは、診断名のつかない私も同様だった。


 それは最後の日のことだった。その日は朝から具合が悪くて、久しぶりに来た親の面会も拒否していた。それなのに、毎日お知らせを届けに来ていたクラスメイトが病室に入ってきた。

「久しぶり」

 私は眼球だけ動かしたけれど、彼女の姿はぼやけて見えなかった。空気に溶けた輪郭線は彼女の孤独を匂わせていた。けれどその実、彼女が孤独でないことを私は知っていた。だから、彼女が孤独なのはこの病室内でだけだ。この病室内では誰もが孤独になる。

「ひさ、しぶり」

 掠れた声で返事をしたけれど伝わったかは定かでなかった。というよりもう、どうでも良かった。クラスメイトにどう思われようが、そろそろ死ぬ私には何も関係がなかった。

「これ、今日のお知らせ。渡しに来たから。でももう読めないんだっけ。ここで読み上げるね」

 私の意思を聞かない彼女の方から紙の擦れる音が聞こえた。彼女は二つ折りだったであろうA4のコピー用紙に印刷されたクラスだよりを読み上げる。

「厳しい暑さが続いておりますので、お体ご自愛下さい」

 もう夏だったのか。とっくに時間の感覚も季節の感覚もなくなっていた私は少しだけ驚いた。

「先週は京都に修学旅行に行きました。生徒たちは皆金閣寺や二条城など、テレビで見る建築物に興奮するとともに、多くの学びを得て一回りも二周りも成長して行きました」

「もう、いいよ」

「本当はここに弥生さんがいると嬉しかったです」

「誰?」

 知らない名前だった。私がそう零せば隣で彼女が息を飲んだ。

「貴方の、名前だよ」

 そう言えば、そうだった気がする。私はここで名前すら失ってしまったらしかった。それは人と最低限の関わりしか持たず、誰かを排除した結果だ。

「私に任せて一度もここに来なかったのにね」

 確かに、一度も会いに来ずに、来てほしかったと言うとははなんとも可笑しな話である。

 視界が暗くなる。もう瞼も開けられなかった。人に死ぬ瞬間なんて見せたくなかったのに。彼女はしばらくこの病室にいるようだった。

 吐き気はするけど何も零れない。頭が強く痛むはずなのにどこか浮いていて実感がない。指先も動かせない。でも、彼女を私は知っている。ただのクラスメイトだと思ったけれど、多分、仲が良かった気がする。思い出せないのが私自身の所為なのか病の所為なのか分からなかったけれど、病の所為であれば良いと思った。もしかしたら友人を忘れただなんて思いたくなかった。

「ありがとう、いつも」

 会いもしない私の元を訪れてくれて。

 言葉は出なかったし、伝わろうが伝わらなかろうがどうでも良かった。私はたぶん、最後に私の良心を少しでも癒してあげたかった。

 五感の灯火は少しずつ消えていって、最後に音がぶつんと途切れた。




ー何で、何でそんな事言うの。私、誰も許したくないよ。

静かな病室にナースコールの音と少女の声が落ちた。

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