階段
壱原 一
先日出先の人混みで、異様な気配とすれ違った。
行き過ぎて流れた風景の、視界のほんの僅か端。信号機か、電柱、看板、恐らくそうした長い物の影が何の変哲もなく立っていたと思う。
その前を通った直後から背中に張り付かれている感じがする。ちょうど同じ背丈ほどの誰かの体の正面がみっしり背後にくっ付いている。
普通は凹凸が邪魔してこうは接し得ないだろう。此方の後頭部に鼻や口、背中には胸や腹が、明らかな異物感を伴って体内にめり込んでいる。
頭皮に呼吸が行き来している。首筋に嚥下のうごめきが伝わる。背や尻に感じる弾力から、余分に見積もっても老年に差し掛かる前の大人と判じられる。
如何せんめり込んでいるので男女の別は分からない。しかし常時ぞわぞわと怖気だつ不快な落ち着かなさの前に、年齢や性別など些事だ。
椅子の背凭れに寄り掛かっていても、仰向けに寝ていても、壁に背中を擦り付けても張り付かれている感覚が消えない。
心身に不調を来してきたので、心配した家人の勧めもあり、まず病院で異常無しと診察を得て、次に神社でお祓いを受けお守りを授かってきた。
帰路は気の持ちようかと思いつつ背が軽い。帰宅して寛いだ頃には、いよいよ怪しい何者かとおさらばしたと確信する。
そうして湯船に入浴剤なぞ入れ長湯を楽しむ。風呂上がりにビールで快哉し、ほろ酔いで寝床へ収まるべく家人に就寝の挨拶をして居間を出て階段へ向かう。
2階建ての我が家の直階段は、階上の廊下と並行している。上り口の真上に寝室への廊下がある。
階段を上がり切り、踊り場で右へ反転して、右下に階段を見下ろす形で手すり壁に沿って廊下を行き、突き当りの角をまた右へ曲がると寝室へ着く。
つまり階段を上がる時、頭上に手すり壁を頂いて真下を潜る訳だが、電気を点け、足を踏み出した視野の上辺に影が差した。
頭上の廊下に誰か居る。
腹ほどの高さの手すり壁の縁から、人が体を乗り出して此方を覗いていると覚る。
一段目に片足を乗せたまま一筋も動けなくなった。
核家族で子は一人暮らし。家人は居間で憩うており、無人であるべき2階から息を吸って吐く微音がする。
胸の下で手すり壁に自重を預け、両手を掛けて顎を乗せ、屈んだ分だけ膝を折り、じっと見下ろしている。
あまり長く静止していては勘付いたと知られてしまう。
動かなければと過ぎるなりびくっと爪先が跳ね上がる。
自然に装うなら階段を上るべきなのに体は踵を返していた。
背後でずる、ぼと、と落ちた音がして、立ち上がり歩き出す音が続く。一挙に冷や汗が吹き出して最寄りの引き戸に滑り込み、洗濯機の脇の篭に脱ぎ入れた服が目に付いて天啓のように閃いた。
ポケットに入れていたお守り。
なんて莫迦だ。お守りを持たなくては。
慌てて服をまさぐって、緻密な織りの手触りに当たり歓喜と共に取り出して縋る。
焦って振り向き戸口を見ると閉めた引き戸が開いている。
汗の滲む手でお守りを握り、洗濯機にびたりと張り付いた背に、のそりと人体が伸し掛かり全て重なる感じがした。
*
お守りを篭に放り立ち上がる。
台所に寄って、居間へ進む。
終.
階段 壱原 一 @Hajime1HARA
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