1-5


「明日の、放課後ですか?」


 そう彼女に返しながらも、頭の中にあったのは、俺には特に用事というものが存在しないことだった。


 いつだって予定は空白である。強いて挙げるのならば、家に帰るまでの時間をどうにか引き延ばすために在籍している生徒会の雑務であったり、もしくは科学部での時間であったり。そういった時間くらいは予定として挙げられるだろうが、それ以外の用事というものは俺にはない。


 きっと、ここでの答えはYESなんだろうけれど、それに対して素直に頷くことができるほど、俺の心根というものは素直じゃない。


 予定があるか、と聞かれるということは、予定がなかった分の時間を相手に使うことになる。ここで俺を誘ってくる彼女の言葉に、俺は時間を割く余裕というものはあるだろうか。ここでいう余裕というものは、自分自身の感情の余裕というものであり、ヒロミに対して俺は時間を使うことができるかどうか。それに尽きる。


 けれど。


「暇ですよ。いつも通りに生徒会の雑務に取り組んでいると思います」


 NOという返事を俺にすることはできない。相手は目上である先輩の提案であり、いわば拒否することは難しい事柄である。


 別に相手からの心証だとか印象について、俺が気にするということはないものの、なるべく目上の存在である先輩という属性に対しては下手に立ちまわっておきたい。赤座のように距離を詰めるような事柄をこちら側に強制されるというのであれば、やんわりと断る姿勢を見せるだろうけれど、ここではその必要はないだろう。


 俺の言葉を彼女は聞くと、うんうん、と弾んだ様子でにこにこと笑っている。くすぐるような笑い方をする人だな、って思った。


「それじゃ、明日は生徒会室ね! お楽しみを用意しておくから!」


 そんな彼女の言葉に、どこか嫌な予感を覚えずにはいられなかったけれど、それでも今更受け入れた言葉を否定することは、俺にできそうもなかった。





 ようやく生徒が学校へと向かってくる時間になった。朝練を目的とした生徒とは異なって、学習を目的としている生徒がやってくるので、その大半がもちろん制服を着ていた。


 一部、制服を着崩している人間がいれば、赤座や常法寺が前に出て注意を促している。その一連の動作については染みついているようで、挨拶をした後に、ちょいちょい、と指で相手に呼びかけた後、風紀委員がやるようにネクタイを締めあげるようにする。


 ヒロミはと言えば、間延びした声で挨拶をしながらも、たまに知り合っている人なのだろうか、手を振りながら声をかけている。俺と異なって、貼りついているような笑顔ではなく、心から自然な笑顔を浮かべている彼女に対して、きっと本当に人のことを好きなんだろうな、とぼんやり考えたりする。俺もこうなる未来があっただろうか、とかどうでもいいことを考えた後、ヒロミの声に続くように、おはようございます、と適当な生徒に声をかけた。


 だんだんと人混みができあがる。ちらちらとやってきていた生徒の雰囲気から、目につく限りに人という雰囲気に切り替わる。どうやらバス登校をしている生徒がやってきたみたいで、その人だかりに少しばかり眩暈を覚えそうになる。


 それでも、挨拶をすることはやめない。なんでこんなことをしているんだろう、と素面になってしまう自分はいるけれど、頬の筋肉を意識しながら、ただただ挨拶を続ける。


 そんな中で「あっ」という声が聞こえた。


 聞き覚えのある声、もしくは聴きなれた声音だと思った。その気づきの声に浮ついていた視線を目前へと戻す。


「おはようございます」


 俺は声の主、……伊万里に対して声をかけた。そう挨拶するのが無難だった、というのもあるし、単純にそう挨拶するのが俺の仕事だったから、彼女へと言葉をかけていた。


 普段ならば、挨拶なんてすることはないのかもしれない。物理室で会話をするならまだしも、こんなどうでもいい日常の合間において、彼女に声をかけるというのは珍しいのだろう。


「……おはようございます。朝から忙しそうですね」


 少し不機嫌、というような伊万里の表情。いつもとは違う振る舞いを俺がしているからなのかもしれない。俺は伊万里のそんな様子に苦笑を浮かべながら「そうでもないですよ」と返してみる。


「おはようございます、とみんなに声をかけるだけの仕事ですから、忙しいとかないです」


「そうですか? 私だったら絶対にやりたくない仕事の第四位くらいの内容ですけど」


「……第三位からが気になりますね」


 俺が彼女の言葉にそう返すと、彼女も苦笑を浮かべる。少しばかり楽しい、という感情が俺の中にちらついたけれど、それはそれとして他にも流れ込んでいる生徒に挨拶をする。


 用が済んだ、と言わんばかりに、伊万里は俺から視線を移して、そうして学校のほうへと歩いていく。用が済んだ、というよりも、俺が単純に仕事へと戻ったから、その配慮なのかもしれない。 


 俺は彼女の背中を見送った後、先ほどと同じように挨拶を繰り返す。たまに返ってくる「おはようございます」の声に、まだ性根のいい人はいるんだろうな、と少しばかりの期待を抱きながら。



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