窓際のソワレ

金 日輪 【こん にちわ】

窓際のソワレ

 高校三年生の夏に地方に引っ越してきた僕は早速一目惚れをしてしまった。

 隣に住む、同じ三年生の大場おおば あかね

 初めて見たのは、新居にて設けられた自室の整理をしていた時。

 どこからともなく聴こえる、軽やかなピアノの音色。

 それにつられる様にして萌葱色に染められた窓のカーテンを開けると、手が届く程の距離に隣の家の窓があった。

 初夏の暑さを凌ぐ為か開け放たれていた窓の奥に、瞼を閉じながら軽快な指使いで鍵盤を叩く彼女の横顔が見えた。

 差し込む太陽の光を反射し、金色に光る艶やかな暗いブロンドの長髪。

 僕は彼女が気付いていないのをいい事に、その様子をじっと眺め続けていた。

 激しくなる曲調と共に頭を揺らし、小気味良いメロディを口ずさみ始める。

 これまでの練習量を物語るように洗練された細長い指は、まるでピアノを弾くために作られた神様の気まぐれのようだった。

 ちょうど子供がお気に入りの玩具おもちゃで遊んでいる時の様な無邪気な笑顔を浮かべる姿に


「可愛い」


 思わず口にしてしまった。

 途端、彼女が動かしていた手を止める。

 はっ、となり口を手で覆った時にはもう遅かった。

 一瞬の沈黙の後耳まで真っ赤にしながら、わなわなとこちらを振り向く彼女。

 その顔には、気恥ずかしさと憤りを孕んだ様な、何とも言えない表情が浮かべられていた。

 彼女はずかずかと大股でこちらに近づき、勢いよく桃色のカーテンと窓を閉めた。

 その迫力に気圧されて仰け反った時に初めて気がつく。

 いつの間にか、彼女の家の窓枠に肘が付く程前のめりになっていた事に。

 まだ微かに聞こえていたピアノの音は徐々に蝉の鳴き声に掻き消され、やがて聞こえなくなった。

 その日は後悔にさいなまれて寝付くことが出来なかった。

 初対面の、しかもおそらく同級生であろう彼女への第一声があんなのなんて。




 翌日、そんな事を考えながらベッドに横たわっていると、またあの軽快なピアノの音色が。

 小気味よく刻まれるリズム。

 その音がする度に、僕の心臓の音はバクバクと激しさを増していく。

 恐る恐る外を見ると、やはりカーテンは全開。

 昨日と同じ、彼女の横顔があった。

 彼女は僕の視線に気づいたのか、閉じていた目をそっと開け、ちらりとこちらに顔を向ける。

 その顔は無表情ではあったが、微妙に口元がもごもごとしていた。

 何より林檎の様に赤く染まっている彼女の両耳が、恥ずかしい! と僕にこれでもかと主張していた。

 彼女は平静を装ったままピアノに向き直り、また目を瞑る。

 これは聞いてても良いって事かな?

 ちらちらと僕がまだ居ることを確認するように薄目を開けている彼女に気づかない振りをしながら、僕はゆっくりと頭でリズムを刻んだ。





 僕は彼女を学校で見かけたことが無い。

 他のクラスで不登校の子がいるという話を友達から聞いた時、隣の家の彼女がその人本人であるだろう事は直ぐに予想がついた。

 友達にその子の名前を聞いて、僕はそこで漸く隣の家の彼女の名前を知ることになった。

 今日も学校に来なかった、と思悩おもなやむ。

 そして自宅に帰り、隣の家の窓から覗く彼女の横顔を見る度に杞憂だったと安心する。

 そんな日々が夏の終わりまで続いた。

 彼女の音を邪魔する蝉の鳴き声もいつしか影を潜め、代わりに乾いた色なき風が吹き始めた。

 学校終わり、橙色の夕日が部屋中を照らす中彼女のピアノを聴くこの時間はいつしか恒例の物となり、まるで二人だけの世界にいる様な不思議な感覚が、僕にとってはただただ嬉しかった。

 誰も知らないけれど、僕にピアノを聴かせてくれる、僕だけの妖精。

 心地の良い沈黙が二人の間に流れる中、僕はそんな感情を彼女に抱いていた。





 ある日、母から隣の家が再婚したという話を聞いた。

 彼女と僕は窓越しに長い時間を共にしていたが、互いに話した事は一度もない。

 だから僕は離婚状態にあったんだ、と心底驚いた。

 そこで漸く、彼女の事を何も知らなすぎるという事を悟った。

 今更だけど、今日は話しかけてみよう。

 そう意気込んで自室に戻るも、彼女の姿は無く、それどころか窓も締め切られていた。

 再婚したんだし色々と忙しいのかな、と自分に言い聞かせていたが、次の日も、その次の日も窓が開くことは無かった。




 またある日、学校で授業を受けながらぼーっと窓の外を眺めていると、彼女の姿を発見した。

 数人の男達と、薄暗い焼却炉の付近で煙草を吸っている。

 引きづりそうな程長いスカートに、オーバーサイズの真っ黒なパーカー。

 遠くからでも分かる程濃くなった化粧に眩しくなる位鮮やかに光る、肩の上で綺麗に揃った金髪。

 いつも見ていた彼女の柔らかい雰囲気と目の前の景色との乖離に頭痛がした。

 身長の低い彼女と同じ程の身の丈の真っ黒なギターケースにもたれ掛かりながら、そこまで近くないこちらの教室にも聞こえるような声でハハハ、と豪快に笑う。

嗄れている喉を震わせて大声で話し出す彼女の低い声を聞いて、こんな声だったんだ、と思った。

 僕は何だか見てられなくなって、彼女が元気で良かった、と目の前の光景をそう雑に結論づけて机に突っ伏す。

 彼女が僕の物じゃなくなってしまう。

 そんな理不尽な感覚を抱きながら、僕は授業中にも関わらず意識をそっと手放した。




 またそれから暫く彼女を見かける事は無く、生温かった秋風も終わりを告げ、凍えるような寒風と共に冬がやってきた。

 時計も零時を回り、何だか寝付けなくて外をフラフラと出歩いていた時のこと。

 近所の小さなラーメン店から出てくる彼女を見つけた。

 長らく彼女のピアノを聞いていなかった事を思い出し、秋の出来事などとうに忘れた僕は久しぶりの再開に心躍らせながら彼女の元へと駆け寄ろうとした。

 しかし彼女のすぐ隣を歩く壮年の男性に気が付いて、僕は思わず足を止めた。

 あの距離感の近さからして、あれが彼女の新しい父親か。

 親子水入らずの瞬間を邪魔するのは野暮だと思い立ち去ろうとした。

 しかし彼女の表情に目が離せない。

 可愛いと対極に位置するであろう彼女の虚無顔は、夏の記憶を書き換えてしまう程の絶望に満ちており、下を向いてトボトボと歩く姿はどこか悲しげだった。

 冬のせいか、背筋が凍るような感覚に襲われる。

 壮年の男性は淫猥いんわいな視線を、彼女の全身を舐め回す様に動かしていた。

 暗がりではっきりとは見えなかったが、二人が恋人繋ぎをしていたような気がした。

 深呼吸をしようと深く息を吸い込むも、寒気が肺に突き刺さって呼吸が浅くなる。

 結局落ち着く事なんて出来るはずも無く。

 僕は一瞬、彼女が他人の様に見えた気がして言いようのない気持ち悪さを感じ、今まで息を潜めていた事も忘れて必死にその場から逃げ出した。


「ちょっと!」


 と、助けを求めるように叫んでいた彼女の声すら無視して。




 僕は都会の方の大学に進学、あの1年間の出来事全てから逃げ出すように上京した。

 それから4年。

 彼女は天才ピアニスト「高渕 茜」として、各バラエティやドキュメンタリーに引っ張りだこ。

 その才能で多くの人から賞賛を受けながら、彼女は瞬く間に人気者へとなっていった。

 

 もう僕だけのものじゃない。


 今日はそんな彼女が近くのホールで演奏会、「窓際のソワレ」を行う日。

 今更、会いに行っても彼女は僕のことを覚えているだろうか。

 そもそも、逃げ出した僕を許してくれるだろうか。

 僕は棚の中に大切に保管してあった桃色のチケットを取り出し、最寄り駅に向かって家を飛び出した。

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