序-3
「なら、あな重でも食べればいいんですよ」
今日のお勤め中。エアコンの効いた涼しい部屋の中で。学習机の回転椅子に座って、夏休みの宿題をすらすらとノートに書き込んでいきながら、教え子の佐倉とばりはそう言った。
佐倉とばり――腰まで届く長い黒髪の、白いワンピースを着た少女。私はこの子のお家で家庭教師なんてしている。小学四年生の彼女の勉強を見てあげているんだ。
――家庭教師をする大学生。
学習塾全盛のこの時代に、家庭教師なんて勤まるのか、と思われるかも知れないけど、実際にやっていけてるんだからいいじゃないかよと思う。とばりは可愛いし、人間的に好きだ。だから今ここに居て、彼女の勉強を見る仕事をさせて貰っている。
その勉強の最中に、今の私の思いなんかをそれとなく相談してみた訳なんだけど。
「……うなぎが駄目ならあなごを食べればいいじゃない?」
椅子に座るとばりに対して、私はフローリングの床に座り、読んでいた本から顔を上げて応える。とばりの言った“あな重”とは、つまりうな重の鰻を穴子に置き換えたもの、っていう事なんだろう。それで精が付くのかなっていう疑問はあるけど。鰻と穴子、当たり前だけど穴子の方が遥かに安いからな。その分栄養とか味的なのが少ないんだろう、多分。
「その人の言葉にされると、私が嫌味を言っているみたいに聞こえます」
こっちをちらりと見て、不服そうな声を漏らすとばり。
「ごめんごめん。頭に栄養回ってないから、短絡思考になっちゃってる」
なんでも思い付きだけで物事を口にするもんじゃないよな。確かに、そんな事ばっかり言っていた(らしい)アントワネットさんは首を刎ねられちゃったんだし。悪い意味に取られてしまうのも仕方がない。
「そういう意味じゃなくてですね。普段の生活をしてスランプだというのなら、何か違う事をすれば気分転換になるでしょう、と言いたいんです」
喋りながらも、とばりの手は止まらない。どんなやり取りをしていても、手元のノートにはどんどん文字や数式が書き足されていく。実際にこの子は、小学生にしてはとても頭がいい。
それはこの部屋をよく見てみると察せられる。本がいっぱいある。というか本で部屋の殆どが埋もれている。大きな本棚も二つ、あるにはあるんだけど、そこはもう隙間なく本で敷き詰められてしまっていて、更にそれにも入らない本は全部、部屋の各所に山積みにされている。
それらは殆ど、小学生の読み物だとは思えない本ばかりだ。ジャンルとしては、民俗学関係の本が多いっぽい。古めかしい本もいっぱいある。私が今読ませて貰っていた本もそういったものの一冊だし。因みにこの本、表紙をちょいと見てみると、“桃太郎の誕生”と書かれていた。桃太郎といえばお伽噺な訳だけど、これは民俗学の巨匠、柳田さんの書いた本だ。……民俗学の題材としては理解出来るけど、小学生が自分の本棚に入れてる本じゃないよな。
そんな部屋を見ていると、私の家庭教師としての立場に疑問を抱いてしまう。私なんかが居なくても、充分に勉強出来るんじゃないかと。
だけど、別にこの子は学校などで特別視されてる訳じゃない。成績はいいんだけど、凄いという程でもない。こうして勉強を教えている身としては不思議な程に。
例えば、彼女の学校でのテストの点数を参照してみる。
平均して、八十点から九十点台が多い。たまに七十点台を見るとか、そのくらいのもの。
確かに悪くはない。優等生と呼ばれるには充分なレベルだ。でも私が教えている勉強の内容は、それよりもずっとレベルが高いものだったりする。自分より位の高い、小学校高学年の問題も特に難しいと思わせる事なく解いていっている。そうした知識をしっかりと生かせば、百点連発だって全然夢じゃない筈。
だけど私は、この子が百点を取ったのを見た事がない。私の知っている限り、一度も。
なぜか。
手を抜いているからだ。
この子は興味のない事には本気は出さない。大人ともなればそれが普通かもと言えるけど、小学生にしては普通じゃないと思う。
若い時分は、誰しも己の最大を誇示しようとするものだ。他人よりも優れているという、そんな結果が公表されるとなると、有頂天にもなるというもの。
だけどそうしない方が、楽に居られるものだとこの子は解っている。教師にひいきにされる事もない。他の生徒に羨望の眼差しで見られる事も、或いは妬みを含んだ目で見られる事もない。そんな面倒事は自分の事だけで充分なんだと。
そう。この子には特別な“何か”がある。他の小学生の誰にもないだろう、面倒な“何か”が。
――まあ、その事はまた別の機会に語ろう。今この時間には関係のない事だ。
「違う事ねえ……」
とばりの言った言葉に、一つ深々と思案をしてみる。成程今のスランプを脱するには、いつもと違う事をするというのはなかなか面白そうな解決方法なのかも知れない。じゃあ例えば普段しない事。何があるだろう。
「ねえとばり、トランプしない?」
唐突に、そんな閃きが出て来る。
「しないです。今勉強中なので」
一蹴された。
「えー、何かやればいいって言ったのとばりんじゃないかー」
「私は気分転換する必要がないですから。あととばりんはやめて下さい」
なぜだかこの子、とばりんと言われると嫌がるんだ。可愛らしくていい呼び方だと思うんだけどなあ。
「トランプやればいいって言ったのとばりじゃないかー」
仕方がないので言い直してみる。
「捏造ですよね。大体どうしてトランプなんですか」
捏造、なんて言葉を普通に使う、冷めた小学生の目でちらりとこっちを見られた。
「だってさ、この部屋にトランプってないでしょ?」
「ないですね」
と、即答するのもどうかと思うな。遊びには興味ないんだろうかなとばりは。なさそうだなあ。実際にこの子の部屋は、玩具の類が見当たらない。本ばっかりだ。中には絵本もあったりするけども、それは絵本だから読んでいるんじゃなくて、民俗学の資料という意味合いで読んでる、っていう事なんだろうし。
「ないものをやるっていうなら、それは普段とは違う事ってなるんじゃない?」
「ないものねだりをしても、ここにはトランプはないです。タローならありますけど」
「……たろー?」
太郎さん? 誰?
短い時間、考え込んでしまう。そんな私の様子を見てか、とばりは呆れたような小さな息を吐いて、手を止めて椅子ごとこっちを向いて言葉を続けた。
「タロットカードの事です。小アルカナならトランプの代わりが出来るでしょう」
ああ、そういう事か。それなら少しだけ知っている。タロットっていうのは、占いとかでよく使われる札の事だ。
普通イメージするタロットって言うのは二十二枚の札。例えばマジシャンとかタワーとかザ・ワールドとかの、名前を象徴する絵柄のある札を想像するけど、そうした札は大アルカナと言って、その他に五十六枚の札、小アルカナっていうのがあるんだ。一から十四までの数字、掛ける四組の札。それらの組からそれぞれ十四の札を引けば、トランプの枚数、五十二枚(ジョーカーを抜いた)と同じ数になる。だからタロットはトランプの原型とも、トランプが原型とも言われるんだっけ。どっちが先に世に出たのかまでは知らないけど。
まあ、いずれにしても言えるのは、小アルカナの十四の札を全部抜いて、そこにもう一枚、ジョーカーに値する札――例えば大アルカナから愚者(フール)辺りの札を加えてやれば、トランプの代わりに使えない事もない、という事だ。
でもなんでとばりはタロットなんて持っているんだろうな。まあ、面白そうだから敢えて突っ込みは入れないけどさ。
「じゃあとばり、それ使ってちょっと遊ぼうぜ」
「一応仕事中なのにそんなに暇なんですか」
じろり、とこちらを一瞥されて言われた。
「そうだねえ。とばりがあんまりにも出来のいい子だからさ」
「複雑な褒め言葉ですね」
それから興味を失ったのか、とばりは再び宿題の方に向かって没頭する。やっぱり遊ぶのには乗り気じゃないらしい。けど、
「でも時子。刺激的なんてものは、案外近くに転がっているものですよ」
その前に一つ、思い付いたみたいに言葉を口にした。
この子が言うと、それはなかなかに説得力があるんだ。
結局、とばりはトランプはしてくれなかった。
だけど(駄々をこねる)私の為に、渋々ながらタロットで一つ占いをしてくれた。大アルカナだけを使った、簡単な占い。
結果は一言で述べられた。「面白そうな未来ですね」と。どういう意味なのかまでは教えてくれなかったけどな。
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