裏口の鍵は開いている 2

猫パンチ三世

コドク箱 1

 その日は、背筋が伸びるような快晴だった。

 空は朝から青々とした表情を見せ、ふわりとした滑らかさのある雲はそれに程よくアクセントをつけている。


 あるで子供が描いたような青空、それを山野廻やまのめぐるは満足そうに見上げていた。


「表の掃除、終わったぞー」


 黒いシャツの胸元をパタつかせながら、廻は店の中へと入る。

 その視線の先では、彼の雇用主兼同居人の佐山義時さやまよしときが棚にあった壺を磨いていた。


「お疲れ様、僕の方はもう少しかかりそうだ」


「じゃあそっちが終わるまでには朝飯を準備しとくよ」


 そう言って背中を向けた廻を、義時は何かを思い出したように呼び止めた。


「それと朝食の後でいいんだが、少し前に奥にしまった壺を表に出すのを手伝ってくれないか? あの牡丹の描かれてるやつ」


「あー……あれか、あれも中々売れないよな。結構長い事あるんじゃないか?」


 義時の言った壺とは、大きさが百七十センチもある大きな沈香壺の事だ。十八世紀後半に肥前(現在の佐賀、長崎県)で焼かれた物で、表面には何とも言えない画風の牡丹が描かれている。


「そうだねえ……僕がこの店を先代から受け継いだ時にはもうあったよ。良い作品なのにどういうわけか売れないんだよ」


「値段をもうちょい下げたりとかしないのか?」


 壺は作られた時代や状態によって値が変わるが、もっとも大きな変化の基準は作家が誰であるかだ。

『さやま』にある沈香壺の作者は、大里善治おおさとぜんじという作家だ。

 彼の作品はどれも凡庸で、不出来とまでは言わないがこれといって魅力が無い……というのが世間一般の評価だ。

 価格も高い物で精々十万円が良いところで、安い物なら一万を切る価格で売る店も多い。


 だが義時は善治の作品を、あろう事か二十万で売ろうとしているのだ。

 当然買い手が見つかるはずもなく、牡丹の沈香壺はすっかり『さやま』の肥やしとなってしまっている。


「それは駄目だ。先代も僕も、この壺にはあの値段に相応しい価値があると思っている。売れないから、世間の評価が低いからといって値段を下げるなんてのは、僕らにすれば自分の目が節穴だって言ってるようなものさ」


「そうは言ってもな……」


「心配いらないよ。まだあれの価値が分かる人と壺が出会ってないだけさ。人も物も、自ずと引かれ合ってあるべき形に落ち着くんだよ」


「ま、なるようになるって事だろ?」


「そういう事だね。引き留めて悪かった、改めて朝食を頼むよ」


 廻はその言葉に軽く返事をし、朝食の準備を始める。

 炊飯器を開けると食欲を刺激するような白米の香りが、白い蒸気と共に舞い上がる。

 白い宝石のような白飯を一塊すくい、彼は小さくほくそ笑む。

 義時は、朝食は必ず米を食べるという拘りがある。加えて米の水加減などの細やかな部分にもうるさく、基本的にはあらゆる事柄に寛容な態度を見せる義時だが、米の炊き上がり具合にだけは厳しい姿勢をこれまでの生活で見せていた。


 一人暮らしの時分ならば、米が硬かろうが柔らかかろうがこんなもんかと食べていた廻にとっては億劫でしかなかったが、雇われ、住居まで世話になっている身としては文句を言えるわけもなく、ただ真摯に米を炊く以外の道は残されていなかった。


 はじめは失敗続きだったが、ここ最近出来上がりはかなり良くなってきていた。


 白飯の炊き上がりに満足した後で、彼は味噌汁と主菜の準備に取り掛かる。

 味噌汁の具材には豆腐となめこを選択する、具材に関しては義時から一任されており、廻が自由に選択する事ができる。

 主菜には、近所にある鮮魚店の主人から譲られた鮭を選択した。

  二つの品を手際よく廻は準備していく、味噌汁と鮭の焼けた香りが彼の立つ台所を包み込む。

 窓から差し込む朝の光と、小鳥の囀りがそこに加われば何の変哲も無い台所も至福の空間に早変わりし、そこに漂う気持ちの良い一日になる事を確信させる幸福な空気は、廻を優しく包んでいた。


「おーい、朝飯できたぞ」


 廻が義時を呼びに行くと、ちょうど彼も作業を終え奥へと引っ込んできたところだった。

 

「待たせたね、それじゃあ朝食を……」


 そこまで言いかけて、義時は鼻をすんと鳴らす。

 

「……これは期待できそうな香りだね」


「だろ?」


 二人は意気揚々と台所へと向かった。

 

 食卓に並べられた朝食に手を合わせてから、二人は食事を始める。

 白い蒸気を立ち上がらせる白飯と味噌汁、そしてうっすらと焦げ目の付いた焼き鮭。

 これぞまさしく日本の朝食、と言っても差し支えの無い光景が二人の前にはあった。

 

 義時は目の前に置かれた白飯を、躊躇いなく口へ運ぶ。

 口内で米がその形を失うまで噛みしめた後、ペースト状になった白飯は多幸感を引きずりながら胃の中へと落ちていく。

 

「うん、美味しい。文句のつけようが無い出来だ」


 そう言って笑う義時の顔を見て、廻はふうと尾を引くような安堵のため息を吐いた。


「そいつは良かった、今日の出来栄えはかなり自信があったからな。これで駄目だと言われたどうしようかと思ったぜ」


 残りの味噌汁と鮭も好評で、義時は美味しいと繰り返しながらペロリと平らげてしまった。

 廻は一人の時の食事風景をぼんやりと思い出しながら、こうも喜んでくれるのなら食事を作るのも悪くないなと思いつつ、自分も朝食を口の中へと放り込んだ。


 洗い物を済ませた後、洗濯物を干し、家の中の掃除をサッと終わらせた二人は居間でのんびりと過ごしていた。

 基本的には家事全般は廻の仕事だ、だが今日は義時も手伝ったためいつもより早く仕事が終わったため、のんびりする時間ができたのだった。


 八畳ほどの居間で、廻は畳の上にごろりと寝転び、義時はテーブルの上に置かれた麦茶を飲みながら新聞に目を通していた。


「しかしもう九月だってのにまだまだ暑いな、暑さ寒さもなんとやらじゃねーのかね」


「昔と今じゃ気候が全然違うからね、あくまで目安だよ」


「そうは言ってもなあ、もう少し涼しくなってくれればいいんだが」


「そんなに暑いなら倉庫にでも行ってみたらどうだい? あそこに行けば涼しくなるよ。でね」


「はは……勘弁してくれ」


 そう言って含みのある笑みを浮かべる義時に、廻は苦笑いで答える。


 彼らが営む古物店『さやま』、ここでは大きく分けて二つの品を扱っている。

 それらを分ける要因はたった一つ、曰く付きかそうでないかだけだ。


 何の変哲も無いただの古物ではなく、仄暗い曰くを持つ品々。それらを保管しておくのが、義時の言う倉庫だ。


 あそこに収められ、次の引き取り手を待つ品々。

 その前に立てば陽光も小鳥の囀りも朝食の香りもかき消され、どろりとした這うような寒気と陰鬱さに押しつぶされてしまうだろう。


「まだ慣れないみたいだね、そんなにあれらが嫌いかい?」


「嫌い……とまでは言わねえけど、苦手なんだよどうしても。慣れそうにねえんだ」


 住むところもある、給料も以前の仕事の倍以上は貰っている。

 苦手意識のあった接客も、最近は慣れてきた。

 だが『さやま』の裏の顔である、曰く付きの品々にはどうしても慣れそうにない。

 慣れようと思わなかったわけではない、だがあれらの品が放つ空気に、と彼の本能が言っていた。


「ふむ、まあ君はそれでいいよ。前にも言ったと思うけどね、僕は君のそういうまともさ……恐ろしい物を純粋に恐ろしいと思える所を買っているのだから」


「臆病だって事か?」


「言い換えればね、だがそれは君の長所だよ」


 褒められているのか、あるいは上手く貶されたのか廻は判断がつかなかった。

 のらりくらりとした言い回しは、義時の専売特許であり、その言葉の本意を見抜くのは難しい。

 とりあえず考える事をやめ、廻は天井を見上げた。


「そういえば今日の来客の予定は?」


「確か今日は……」


 廻は体を起こし、棚に置いてあったファイルを取る。

 日付を見て、今日の予定を確認する。


「買うのも売るのもなしだな」


 基本的に『さやま』での商品の売買は、表に出ている普通の品を除き、全て予約制になっている。

 個人や企業が持ち込んできた数十万、数百万の価値があるかもしれない品を、片手間に扱う事はできない。

 必ず日時を決め、その日は来客の予定に合わせて店を早めに閉めたり、逆に遅く開けたりと柔軟に対応する。

 

 店を経営する観点から考えれば、こういった対応はあまり効率的では無いかもしれない。

 だが、憧れの陶芸家の一品、若くして亡くなった天才画家の一枚、万人に理解はされなくとも本人にとっては時間と財産を使うに値するだけの熱量が訪れる客たちにはある。


 それは売る側も同じだ。

 大切な物を売るならその価値が分かる人に、納得する金額で売りたいと考えるコレクター。

 あるいは苦しい生活を少しでも好転させるべく、家にあった貴重な品を持ちこむ者もいる。

 

 買うにせよ売るにせよ、そこにはそれぞれの強い思いがある。

 それを蔑ろにしては、この仕事は成り立たない、。というのが先代からの教えであり、義時が大事にしている信条の一つだ。


「そうか、それなら今日はゆっくりできそうだね」


「ま、あるとすりゃあ飛び入りの客くらいなもんか」


 二人の話に割って入るように、店の電話が鳴る。

 あまりにも出来すぎたタイミングの電話に驚きながら、廻は立ち上がった。


 バタバタと走り、鳴っている電話を取った。


「はい、こちらさやま……え? はい、行っていますが……ちなみに品の方は……はい……はい、少々お待ちください」


 会話に聞き耳を立てていた義時は、何かピンとくるものがあった。

 何となくだがこれは『裏口』の客だろうな、と。


 戻って来た廻の表情は、先ほどよりも少し暗い。

 それだけで電話の内容が、喜ばしいものではなかった事を推し量るには十分すぎた。


「……査定の依頼だ」


「品物は?」


 義時の嬉しそうな、何か含みのある笑みを見て、廻は小さくため息を吐いた。


「……箱だとよ、何やら曰く付きの」


 二人の穏やかな朝に、一筋の黒い影が差し込まれた瞬間だった。

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