第3話 非日常③

公園を出ると、彼女は駅と真反対の方向に歩いていく。


その一歩後ろをついていくと、さっき感じた違和感の正体が分かった。


彼女は虐待を受けているのに、堂々としているのだ。


彼女には余裕があり怯えている様子はない。


それどころか自分なんかより自信があるように見えた。


もしかして……虐待が嘘?


一瞬、彼女に感じていた感情に曇りがさしたような気がした。


いや、あの体の傷は明らかに本物だった。


何かの詐欺だとしてこんな幼い少女を使ってまで騙そうとするか?


それとも彼女自身が行っている?


考えは纏まらず、そうこうしているうちに彼女は一軒のぼろ屋の前で立ち止まった。


「ここだよ」


久方と書かれた表札を見て、その建物を見上げる。


建築されてから20年は経っているような木造建築物。


いかにも古めかしいその一軒家は一階と二階ともに電気が消えている。


彼女の家だろうか?


それにしては生活感が薄すぎるような気もするが、彼女が慣れた手つきで入っていく様子を見て確信する。


「入っていいよ」


玄関の扉を開いた先は暗闇が続き、まるで地獄の入り口のようだった。


これ本当に大丈夫か?


入ろうとしていた足を一歩引き、改めて家を一瞥する。


さっきまでただの古い一軒家に見えていた建物が、今見ると怪しく見えてきた。


やっぱり、何かの罠か?





「大丈夫だから」


彼女は傷のついた顔で優しく微笑んだ。


何故かその言葉に安心感を覚え、体が勝手に玄関へ入っていった。


「いらっしゃい」


彼女が電気をつけ、その室内が明らかになる。


玄関を入って正面に長い廊下が続き、すぐ右に二階へ繋がる階段があった。


二階は電気が消えていて、廊下につながる扉は全て閉まっている。


「お邪魔します……ん?」


玄関で靴を脱ぐと、変な匂いがした。


生ごみを何日も放置したような腐敗臭。


彼女は気にする様子もなく、玄関の奥へと進んでいく。


その後ろをついていき、奥になるほどその匂いが強くなっていった。


突き当りの扉の前で止まり、彼女はこちらを向いた。


「大きな声は出さないでね。起きちゃうから」


何か嫌な予感がした。


ジャングルの中で草むらから音が聞こえた時のように、ここからすぐに逃げたくなる感覚。


逃げた方がいい。


はっきりと耳の奥で自分の声が聞こえた。


だが、思考する時間はとっくに過ぎてしまったようだった。


扉が開き、さっきの数倍強い腐敗臭が鼻腔を突き抜ける。


すぐに匂いの発生源だと理解した。


小さい雫が目に浮かび、鼻を抑えながら入っていくと、五畳くらいの部屋の中に男を見た。


身長は自分より高い180前後。


体重は100キロを優に超えているだろう大男が大の字になって部屋の真ん中に寝ていた。


男の周りには酒の瓶やたばこのカスが広がり、本来緑であっただろう畳は茶色くなって所々黒くなっている。


この男は誰だ?


何のためにここにつれてきた?


色々な疑問が頭に浮かび、彼女の放った言葉の前に全てが吹っ飛んだ。




「こいつを殺して」




「――え?」


突然、後頭部を殴られたみたいな衝撃が走り、ぐにゃりと世界が歪んだ。


こいつを殺して。


その言葉を理解しようとして、思考が空回りする。


「な、なにを言ってるの?冗談だよね?」


声は震え、額を嫌な汗が伝っている。


彼女の顔を覗くが、それは冗談を言っているようには見えなかった。


「冗談じゃないよ」


そう言って天使のような笑顔で彼女は微笑む。


「私虐待されてるの。だから殺す」


端的な内容は冷たく、胸を抉るように鋭利だ。


「殺すって……殺さなくてもいいんじゃないか?ほら、警察とか」


その場から動いていないはずなのに何故かさっきよりも彼女が遠く感じる。


……彼女が何を考えているが分からない。


「警察……ね」


そう呟くと彼女はそっと身を寄せ、人差し指を顔前に突き出した。


「それじゃ駄目なんだよ。幸せにならないから」


返答を許さないとでも言うように僕の口をその指で触れた。


彼女の瞳に光はなく、まるで深淵を覗いているかのような漆黒がぐるぐると渦巻いている。




「殺してくれる?」






殺す、という言葉は別に聞きなれている言葉だった。


クラスメイトが雑談している時に、冗談交じりに放ったりしているのをよく聞いていた。


いろんな人が気軽に、殺すという言葉を使っていた。


だが僕はその言葉を知らなかったようだ。


その言葉を発した彼女が、とてつもなく恐ろしい。


彼女は関わってはいけない人間だ。




僕は親から期待されている。


きっとこの後の人生で万引き一つも侵さない、純粋な人間だ。


だから関わってはいけないんだ。


こんな願いは早く断ってしまえ。




「いっ……!」




――声が出ない。



嫌だ、無理。

そう言いたいのに、喉に蓋がされたように声が出ない。


いや、別に声を出さなくてもいいんだ。


ここから飛び出してしまえばいい。


それなのに、体も動かない。




そんな中、頭の中で声が聞こえた。




つまらない日常を壊したい、と。





「駄目だ!駄目だよ!それは!」


自分に言い聞かせるように、声に出す。


誰かを殺して、自分が幸せになろうとすることは。


違う。


殺すことが駄目なんだ。










「うーん?」




突然、声が聞こえて振り向くと、男が寝返りをした。


起きる様子はなく、すぐにいびきを始めた。


震える心臓が押さえつけ、なんとか冷静になったが、すぐに部屋中に響くいびきが邪魔になった。


彼女もそう思ったのだろう。


小さなため息をした。


「今日は無理だね」


彼女はそう言うと僕にを与えた。


「明日、またあの公園にいるから」

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