黄金林檎の落つる頃

清瀬 六朗

パリスの審判

第1話 審判者の愚かな選択

 「が故郷の隣国ギリシャには、黄金の林檎りんごをめぐる物語が伝えられていてな」

 ほの明るく、揺れるともしびに照らされた臥所ふしどで、石造りの寝台のふちに腰掛けて、大王は語り始めた。

 「神々の婚礼に一人だけ招かれなかった女神がおった。それが不和の女神エリス。

 エリスは、その鬱憤うっぷんを晴らさんとして、最高神ゼウスのきさきがみヘラと、知恵の女神アテナと、美の女神アフロディテの就いたテーブルに「最も美しい方へ」と書いた黄金の林檎を投げ込んだのだ。

 その三女神は「自分が最も美しいから、黄金の林檎は自分が受け取るべきだ」と主張して争いになった。

 その審判を委ねられたのが、トロイアという、海峡の向こうの国、アジアの入り口に位置する国の王子パリスだった。

 三人の女神は、パリスの歓心を買おうと、それぞれがパリスに約束を持ちかけた。

 ヘラは、アジアの王の座を約束した。

 アテナは、戦いでの勝利を約束した。

 そして、アフロディテは、世界でいちばん美しい女を。

 それぞれが、自分を勝たせてくれれば、それをパリスに与えると約束した。

 パリスはそのなかでアフロディテを勝たせた。そして、その約束にしたがって、「世界でいちばん美しい女」であったスパルタ王妃へレネーをトロイアに連れ去った。

 このへレネーを奪い返そうとギリシャ人が結束してトロイアに戦いを挑んだ。

 これがトロイア戦争という戦いでな。ギリシャ人どもは、この戦いを自分らの栄光の歴史として、いつまでもいつまでも語り継いだ。

 我は思うた。

 パリスも愚かな選択をしたものだ、とな。

 戦いに勝ち、アジアの王になれる。その約束を見捨てて、一人の美女を選んだのだからな。

 愚かな選択をしたものだ、と我はずっと思うておった」

 涼しい、寒いくらいの風が吹き渡り、灯火が大きく揺れてちらついた。

 ロクサネはその灯火を手で扇ぐ。風に揺らいでも消えなかった灯火が消えた。

 完全な闇にならないのは、星明かりと、外の街の明かりが、開け放った窓からうすぎぬのカーテン越しにここにも届いているからか。

 ロクサネは、いまの日本でいえば高校生と同じ年頃の娘だ。

 そのロクサネが、フェルトと毛皮を敷いた寝台の縁、大王のすぐ横に寄り添うように腰を下ろすと、大王はゆっくりとロクサネの腰に手を回してきた。

 手のあらゆる部分が無駄なく動く。そのようにできあがり、そのように訓練された、戦う者の手だ。

 ロクサネもそのかいなを大王の背の後ろに回すと、大王はロクサネを抱いたままゆっくりと臥所の寝台に身を横たえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る