17.オッドアイ

 美浜山みはまやま高校では音楽、美術、書道の芸術系3科目は選択制となる。一度選んだ科目は特に理由がなければ3年間変更が無く、選ばなかった他の2教科とはその先ほとんど縁のない生活を送ることも可能だ。これは、美術がどうしても苦手だった絢世あやせにとっては、実に嬉しい仕組みだった。

 しかし、現在はそのために悩みの渦中にいる。

 

「……はぁ」

 

 北棟にあるという美術室の位置がわからず、まるでたどり着けないのだった。

 クローヴィスから、放課後に彼を訪ねるよう声をかけられたのは朝一番のこと。しかし、職員室にも学科研究室にもその姿は無く、別の教師に聞いてみると、最近はよく絵を描いているのだという情報が手に入った。そこで、美術室のある北棟をさまよっているというわけである。

 一度校内地図を確認しに戻るか、それとも日々北棟へ通う杏輔きょうすけに聞いてみようか。悩んだ末に取り出した携帯電話を、絢世はやはり思い直して鞄へ仕舞った。


 友達からとはいえ、成り行き上慧哉けいやとつき合うこととなった昨日。その帰り道から、杏輔とのやりとりに小さな違和感が生じるようになっていた。

 今日も会えば話し、昼食も共にし、普段通りの上から目線も相変わらずなのだが、彼は時折気まずそうにこちらの顔から目を逸らした。絢世は絢世で、そんな彼にどう対応したらよいのかわからない状態である。

 おそらく、あんな形で庇われたことが、自尊心を傷つけてしまったのだろう。加えて、その原因でもある慧哉と、本人は認めないものの唯一の友人がつき合うことになってしまっているのだから、こちらも追い打ちとなっているに違いない。気まずくなるのも頷ける。

 絢世の側から歩み寄れば簡単に解決するのかもしれないが、逆効果だった場合の事を考えると今度こそ始末に負えない。暴君の機嫌を取るのは難しいのだ。

 

 校内地図のある昇降口まで戻ろう、と決めた矢先、入り込んだ風でふわりとスカートが揺れる。振り返ってみると、渡り廊下に続く扉が白衣の女性の手によって開け放たれていた。大きな目を見開く彼女は、生物教師の夏目千佳子なつめちかこ。杏輔のクラスを受け持つ副担任である。

 

「あれ、君確か、神崎君の友達の」

「Cクラスの萩野はぎのです、夏目先生」

「そうそう、萩野ちゃん。神崎君とは一緒じゃないの」

「キョウちゃんはテスト勉強が忙しそうなので……」

 

 半分事実の言い訳を使う絢世に、千佳子は苦笑気味に頬を緩めて、あの子はガリ勉君だなぁ、と呟いた。

 

「で、君はどうしたの? もしかして、ヴィルオール先生に用事かな?」

「あ、すごい。なんでわかるんですか?」

「誰かを探してる顔だなって思って。ヴィル君ならそこで絵ぇ描いてるよ。昼、生物室に突然来て、モデルをやって欲しいって言われてさ」

 

 手招く彼女に誘われて、廊下の角を曲がる。同じ学年の副担任同士で、年も近いからだろうか、千佳子とクローヴィスは親しい仲のようだった。

 

「私、結構期待してたんだよね。それがこっちから話しかけても何の反応もなくて、試しにヴィル君のキャンバス覗きにいったら、全然関係ない金髪美女描いてるんだもの。頬っぺたつねりあげてやったよ」

「うわぁ、先生、ひどい事しますね……」

「どっちが。私の1時間を返せってんだ」

 

 言葉とは裏腹に、千佳子は長い髪を揺らして笑った。


 ようやくたどり着いた美術室の扉を開けると、つんと絵の具独特の匂いが鼻を刺す。広い窓からは柔らかな夕暮れの光がいっぱいに入り込み、部屋全体が淡く輝いているようだった。

 その一角に立つ、黒髪の麗人。シャツの袖を捲った手には、鈍く光るパレットナイフ。描きかけらしい、優しい色合いのキャンバスを見つめるスミレ色の左目からは、涙が細く頬を伝っていた。

 目の前の光景に、言葉も忘れて絢世は釘付けになる。今、この場所自体が一枚の絵画のようだった。

 すぐ脇を千佳子がすり抜け、まるで雰囲気を解さない颯爽とした足取りでクローヴィスに近寄った。

 

「……こら!」

「……っ!」

 

 びくっと背を震わせるクローヴィス。反動で、千佳子が彼のうなじに押しつけたアイスコーヒーの缶が落ち、ひどい音を立てる。副担任がこんなに驚く様を絢世は初めて見た。

 

「びっくりした? 私のことまるっと無視してひとりでカッコつけてるから、こういう目に遭うの」

「……夏目、いつの間にコーヒーを」

「いなくなっても気づいてなかったんだね。よーし良い度胸だ、次はホットでやるから」

 

 明るい声で宣言する千佳子の肩越しに、クローヴィスはこちらへ困惑した顔を向けた。漆黒の右目からは、なぜか一滴の雫もこぼれていない。

 

「萩野? ……ああ、5限がないのか。すまない」

「あ、いえ全然。あの、先生それより」

 

 会話の間も流れ続ける左目の涙が気になって仕方がない。彼は絢世の視線を追って自らの頬に触れ、それから首をひねった。自覚がなかったようだ。

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