16.傷痕
目が覚めると、なぜか強い血の匂いがした。
「……?」
うつ伏せた枕から緩慢に顔を上げ、
密室を嫌う
その貴重な扉の一枚として勇哉の私室を区切る木製のドアは、最近の蒸し暑さのために開け放たれている。廊下の壁に、常夜灯の柔らかな光がちらちらと映っていた。
「……はぁ」
大きく息を吐き出して、髪の中に手を突っ込み、かき乱す勇哉。寝台から下ろした足に、フローリングがひんやりと冷たい。
やけにのどが渇いていた。薄い布でくすぐられているようにぞわぞわと四肢がうずく。こうして夜中に目が覚めるときは、大抵慧哉が不調に見舞われているのを、勇哉は経験から知っていた。
不快な感覚に舌打ちをしつつ、頼りない明かりの漏れるストリングカーテンをくぐると、大量の本で息が詰まりそうな慧哉の部屋では、案の定ベッドの端で毛布の固まりが丸くなっていた。
寝たふりのつもりだろうが、痛みをこらえる気配は隠しきれていない。
「……慧哉」
声がかすれる。
しばらく反応は無かったものの、やがて諦めたのか、毛布の隙間から顔を出した慧哉が緩く手を振ってみせた。
「はぁ、ばれちゃったか……。さっすがぁ」
「まぁな」
「褒めてないよ。妙なところで鼻が利くと犬みたいって、……いっ、てぇ」
「お前やっぱバカだろ。どこ、首?」
枕元のスタンドを引き寄せると、巨大な自分の影が天井へ映った。うなじを押さえた慧哉の手をどけてのぞき込むと、淡いオレンジに照らされた肌に、複雑な模様を描く暗い染みがあるのがわかる。
それはアルファベットのUにツタがからみついたような形の痣だった。勇哉にはないその特徴のおかげで、両親はよく似た自分たちを見分けられていたと聞く。
しかし、これまでこの痣が痛むなどという話には覚えがなかった。
「ズキズキする……」
「ああ、何だろ。寝違えたとかじゃねぇよな?」
「知らないよ。仕事中もずっと、駅に着いたあたりからひどくなって、きて……っ」
「痛っ」
声を詰まらせた慧哉が反射のように、こちらの手首をギリッと握りしめた。伸ばし気味の爪が食い込み、顔をしかめる勇哉。
熱く、うっすらと湿った手のひらは、荒い息づかいに呼応して細かく震えている。軽口を叩く余裕すら無くした兄の頭を見下ろし、子どもをあやすようにゆっくりと撫でてやる。
普段の、皮肉と自信が主成分のひねくれ者からは想像できないほど、弱るときにはどん底まで弱ってしまうのが慧哉だった。しかもまた無駄にプライドの高い奴だから、一日中無理を通して症状を悪化させたのだろう。連日の厳しいスケジュールで、疲労やストレスもかなり貯まっているはずである。
低いマットレスに腰を下ろしてしばらくそうしていると、徐々に彼の呼吸が穏やかになってきた。同時に、鷲掴みにされていた勇哉の左手も解放される。
「落ち着いたか? 血は止まってるみてぇだけど」
「……流石に血なんか出てないでしょ?」
「そうか? だって、なんか鉄臭いだろ?」
「僕にはわかんないけど。……あ、待って、勇。ひょっとして」
ひょい、と伸ばされた慧哉の指が勇哉の唇をかすっていった。つんとした痛みが走り抜け、思わず身を引きかけてしまう。
「……君、寝ぼけて唇噛み切ったんだろ。自分の血の匂いじゃないか」
呆れた声で指摘され、ようやく勇哉は匂いの原因が自分の鼻のすぐ下にあったことに気づいた。憮然としてその部分を手の甲で拭うと、寝ころんだ慧哉の瞳に意地悪そうな光が宿る。
「変な夢でも見たんでしょ。気分転換に聞かせてよ。どこの子とそんなに激しいキスをしたの?」
「なんで質問が具体的なんだよ」
「あれ、否定しないんだ?」
「うるせぇな、覚えてねぇだけだ!」
「うるさいのはそっちでしょ、いちいち大騒ぎして。今何時だと思ってんの」
「お前のせいだろ……」
心配するんじゃなかった、とお人好しな自分の性格を恨む。盛大な溜息をつきながら、勇哉はふかふかのマットレスから腰を上げた。
「勇」
垂れ下がる糸束を持ち上げた背後から声がかかる。
「ついでに何か、その辺から本取ってくれない?」
「お前、本当に良い神経してるよな……」
その図太さに敬意を表して、勇哉は手近な医学辞典をベッドの上に投げてやった。危ないな、とは呟いたもののその選択には文句を言わず、慧哉が当たり前の顔でページをめくるのでまた呆れかえる。どう考えても読み物ではない。
今度こそ自室に戻ろうと、勇哉は
「ありがと」
「……おう」
「ついでにコーヒー淹れてきてくれない? ブラックで」
「そこまでしねぇよ!」
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