5.すいはとりえーる

 留守を任されたのだと、クローヴィスは言った。

 

「岡野先生は文化祭関係の打ち合わせに出るそうだ。階段で鉢合わせて、話の流れで引き受けた。休んでいる生徒がいるから、と」

 

 養護教諭の名を挙げ、他人事のように解説するクローヴィス。

 絢世あやせは思わず、腰掛けたビニールのソファから身を乗り出す。休んでいる生徒というのがきっと、例の少年に違いない。

 

「あたしたち、その子のお見舞いに来たんです。でもまだ起きてこないなんて、心配ですね」

 

 背後の白いカーテンに絢世が目をやると、釣られたように隣の杏輔きょうすけも、後ろを気にする素振りを見せた。

 二人が座るソファの後ろは、具合の悪い生徒が休養するためのスペースになっている。

 クローヴィスは首を傾げた。

 

「うちのクラスの生徒か?」

「違います。僕の同級生でもありませんので」

 

 即座に切って捨てた杏輔に対し、相変わらずの無表情をほんの少し、怪訝そうにしかめるクローヴィス。

 

「……進学科の神崎だろう」

「先ほどそう名乗りましたが?」

「……萩野はぎの、本物か?」

「どういう言いがかりだ!」

「キョウちゃん、起こしちゃうよ」

 

 杏輔はいきり立つものの、案の定クローヴィスはといえば、まるで取り乱した様子もない。

 淡々と謝罪を述べる。

 

「そうか、すまん。見ず知らずの生徒を気にかけるというのが、私の知っているお前の人物像と隔たっていてな」

「……どいつもこいつも、僕をなんだと思っている」

 

 教師たちの間でどんな噂がされているかなんて、推して知るべしだろう。また、あながちその風評は間違っていないのだから、ここで彼がふてくされるのはおかしい。

 まあまあ、と絢世になだめられた杏輔は、不機嫌そうに鼻を鳴らして開き直った。

 

「ふん、好きで来ているわけじゃない。僕は絢のお節介に付き合ってやっているだけだ」

「ねー。帰ってもいいよって言ったのにね」

「お前は黙れ。そもそも、寝ている人間だって生徒じゃない。どこの誰かもわからん不審者だ」

「……どういうことだ?」

 

 ここに至って、さすがのクローヴィスも眉をひそめる。

 ちょうどその時、カーテンの向こうで騒々しい音がした。慌てて跳ね起きた中の人物が、その拍子にベッドから落ちたようだ。痛そうなうめき声が続き、思わず絢世は身を竦ませる。

 

 三人の視線が集まる中で、カーテンが引き開けられる。払われた白い布の向こうに、西日を浴びてきらめく長い髪が揺れた。

 眩しそうに細められた瞳は、吸い込まれるような深い緑色。まだ焦点の合わないその目で見つめられ、絢世の心臓がどきりと跳ねる。

 

 息を呑むような美貌の持ち主なら風璃、そしてクローヴィスと、身の周りに二人もいる。多少違うのは、両者ともあくまで男性的な容貌をしているのに対し、この少年には性差を越えた可憐さがあることだろうか。

 慣れとは恐ろしいもので、今更絢世が彼らに対して見とれることも無いのだが、少年の顔からは目を逸らすことができなかった。

 

 やがて、彼の方が絢世から視線を外す。

 同じくあっけにとられた風の杏輔にぼんやりと目を留め、最後にクローヴィスへと順に向いたところで、その瞳に光が宿った。

 

「……りぇーる?」

 

 掠れた声で呟く。

 

「え、何?」

「りぇーる!」

 

 聞き慣れない響きの言葉を発し、彼はソファの背に手を掛ける。

 勢い任せにそのままソファを飛び越え、止める間もなく、腰を浮かせたクローヴィスの長身に飛びついた。

 あっけにとられる絢世と杏輔。

 もはやタックルと呼んでも差し支えないその抱擁ほうようを、クローヴィスは難なく受け止めた。

 しかしさすがに困惑を隠しきれない様子で、絢世たちへと向き直る。説明を求める、とそのオッドアイが言っていたが、状況をつかめていないのはこちらも同じである。

 そんなクローヴィスの肩口に、少年はじっと目元を押し当てていた。やがておもむろに顔を上げ、涙をにじませた瞳で微笑む。

 

「*******」

 

 彼の口から溢れたのは、絢世が聞いたことの無い言語だった。

 どこの言葉だ、と追求しかけた杏輔の口をとっさに塞ぎ、ひとまずその場を見守る。

 クローヴィスの母国語だろうか。

 しかし、語りかける少年の笑顔に、相手から返ってきたのは小さなため息だった。

 

「……すまん、何を言っているのか」

 

 きょとんとする少年。

 

「****、*****」

 

 彼にも、こちらの言葉は通じていないらしい。クローヴィスの袖にしがみついたまま不安そうに、彼と背後の絢世たちを見比べている。

 

「先生にもわからないんですか、この子の言葉」

「ああ、まるで聞いたことがない」

「そいつは、先生を知っているようですが?」

「それも感動の再会って感じだよね」

「私の側に覚えは無いのだが……」

 

 生徒二人が勝手に推測を並べ立てていると、さすがのクローヴィスも弱ったようなため息をこぼした。

 その長身を見上げて少年は肩を落とし、つまんでいたジャケットの生地も離した。

 ぶらん、と下ろした左手が力無く揺れる。

 

「あ……、あなた、えっと」

 

 項垂うなだれてしまった少年に絢世が声をかけようとしたところで、彼は再び顔を上げた。

 今にも泣き出しそうな瞳をクローヴィスに向け、自分を示して呟く。

 

「……すいは」

「すいは? それは、お前の名か?」

 

 少年はもう一度同じ単語を繰り返し、今度は首を傾げたクローヴィスへと指を向けた。

 

「りぇーる」

「……名を聞いているのか? 私は……」

「りぇーる。****」

「……ふむ」

 

 小さな声だが、少年の言葉は揺るがない。

 その目を見下ろし、クローヴィスは腕を組んで考え込む様子だった。

 杏輔がやるよりも圧倒的に様になっている。

 

「……わかった。事情は汲めないが、お前にとっての私は『りぇーる』なんだな、……すいは」

 

 呼ばれた瞬間、『すいは』はぱっと笑顔を浮かべ、再び両手を広げてクローヴィスに抱きつくのだった。

 

「……何がわかったと?」

「何もわからん。ただ納得した」

 

 眉をひそめる杏輔に、クローヴィスはしがみつかれたままの姿勢で、淡々と答える。

 

「理解は、追々でいいだろう。こう懐かれたのでは、放り出すのも気が引ける」

「はーい。じゃあ、あたしも納得しますね!」

「絢、お前まで何を」

「キョウちゃん、そうやって人のこと最初から否定するの、良くないよ。だから友達できないんだよ」

 

 唇を尖らせた絢世が詰め寄ると、文句を続けようとしていた杏輔が言葉をつかえさせた。

 

「それに関しては、萩野が正しい」

「うっ……、そうまで言うなら、もういい。勝手にしろ。僕は知らんぞ」

「わぁい、ありがと、キョウちゃん!」

 

 絢世が追いつめた分だけ後ずさっていた杏輔は、既にソファから落ちそうなまでになっていた。

 下がりかけた眼鏡の位置を直し、ため息をつく彼。

 

「……お前も、なかなか苦労しているな」

「黙れ」

 

 一方、こちらのやりとりをおろおろしながら見ていた『すいは』と目が合い、絢世はにっこりと微笑みかける。

 

「よろしくね、すいは君」

 

 彼についてわかったことなど、無きに等しい。

 杏輔が警戒するのも当然だ。

 だが言葉もわからない状況で、一番不安なのは『すいは』自身に違いないと、絢世は思う。

 柔らかな笑顔を返してくれた『すいは』は、すっかり安心しきっているように見えた。

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