フラスコ

錐谷

第1章.翠羽とリェール

1.女子高生とプチ暴君

 机の天板が真っ黒になるほどの文字で埋め尽くされているのを見て、神崎杏輔かんざききょうすけは銀縁眼鏡の奥で僅かに眉をひそめた。

 文字はどれも、のたくったような筆跡の罵詈雑言で、中には刻み込まれているものもある。もちろん、杏輔本人の仕業ではない。

 

 私立美浜山みはまやま高校、一年A組。

 瀬城せしろ市内では比較的新しい学校で、難関大学を目指す進学科と、自由な雰囲気で人気の普通科から、どちらかのコースを選ぶことができる。特に進学科は県内外から様々な生徒が志願してくることで有名でもあった。

 そんな初対面同士ばかりを集めたクラスでも、春の球技大会が終わったこの頃になれば、次第に遠慮もなくなってくる。

 とは言っても、さすがにイジメが始まるには早すぎるのだが、こと杏輔に限って言えば、ああやっときたか今年は遅かったな、という印象である。例年、クラス替えの度に上履きはなくなり、椅子に絵の具チューブが設置されるのが常だった。

 いわば、新生活の風物詩。

 なんて、そんなことを言えば、嵐のような反論が返ってくるに決まっている。

 机に視線を落としたまま動かない杏輔。

 その後ろで萩野絢世はぎのあやせは、幼馴染みに聞こえないよう、そっとため息をつくのだった。

 

「……絢」

「なぁに?」

 

 呟くような呼び掛けに、絢世は小首を傾げる。腰まで伸ばした自慢の黒髪がさらりと揺れた。

 

「僕のクラスでイジメが発生したようだ」

「そうだね、見ればわかるよ。それ、キョウちゃんの机でしょ。一応被害者なんだから、もうちょっと慌てるとか、無いの?」

「そんなことはどうだっていい」

 

 真顔で、おそらく一番重要な部分をばっさり切って捨てると、彼は鋭い目でこちらへ向き直った。

 

 まだあどけない印象の残る顔立ち。髪も目の色も淡く、黙っていればかわいらしい部類に入る。絢世と同程度しか無い身長を包むモスグリーンのブレザーは、サイズが合わないのか若干丈が余っており、子どもの発表会か七五三を連想させる。

 しかし、眼鏡越しの瞳にはギラついた傲慢な意志が露骨に現れており、近寄りがたい雰囲気となって周囲を威圧していた。他人から敬遠される理由の一つはこれに違いない。

 

「問題は、この僕が学級委員を務めるクラスに、僕の意向に沿わない反逆者がいることだ。集団行動を乱す目障りな奴には、必ず制裁を加えてやるぞ。覚えていろ!」

 

 握った拳を机にたたきつける杏輔。

 のんびりと朝の挨拶を交わしていた生徒たちが、突然の大声に迷惑そうな顔をこちらへ向けた。

 

「絢ちゃん、まだこんなところに。遅れるよ」

「あ、姫ちゃん、おはよう」

 

 そろそろ視線が痛くなってきた頃、廊下を通り過ぎていく人影の中から、見知った少女が絢世に声をかけた。同じ一年C組の黒姫くろひめかえで。隣の席に座る友人である。

 これ幸いとばかりに、絢世は何か身勝手な主張を続ける杏輔から距離を取った。

 

「それじゃキョウちゃん、あたし授業行くね」

「何だと、話はまだ終わってないぞ」

「うん、じゃあ、あとで聞くからまたね」

「おい、待て、絢」

 

 引き留める声を無視して廊下に出た。

 奇しくもその瞬間、HR開始五分前を告げる予鈴が鳴った。

 

「……冷たくしすぎたかな」

「いいのいいの。神崎にはあれくらいで充分」

 

 絢世のつぶやきを、笑顔のかえでが一蹴した。

 

「あのバカ、ホント毎朝騒々しいよね。絢ちゃんも放っておけばいいのに」

 

 渡り廊下には朝の日差しが降り注ぎ、かえでの髪留めについた赤いビーズがきらりと光る。彼女は高校入学後、絢世が最初に仲良くなった新しい友人だった。

 

「放っとくと、もっとうるさいよ」

「でも、絢ちゃんが相手する必要ないよ。なんであんなのと一緒にいるの」

「なんで、って言われてもなぁ」

 

 今更過ぎる問いかけに、絢世は首を捻った。

 

 杏輔とは小学校からの付き合いになる。

 恐ろしいことに当時からあの性格はそのままで、クラスを我が物顔で仕切ってはあちこちから顰蹙ひんしゅくを買っていた。当たり前のように周囲からは浮いた存在だったと記憶している。

 そんな彼と絢世が何をきっかけに親しくなったのかは、残念ながら覚えていない。いつしかよく話すようになり、一緒に登下校するようになった。気づいた頃には、彼の暴走にほどほどのところで水を差すのが自分の役目になっていた。その関係がこれまで狂うこともなく、なんとなく続いている。

 

「うーん、まあ、いつものことだし?」

「……なおさら絢ちゃんの気が知れないよ」

 

 引いた様子を隠しもしない友人に、思わず苦笑がこぼれた。杏輔の、あの傍若無人っぷりを見れば、彼女のような反応が普通で、わざわざ親しくしている絢世の方が奇妙に写るのは当然かもしれない。

 しかし、すっかり慣れている絢世としては、今のところ、この関係を不満に思う事はあまり無いのだった。

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