crush on buds

与作

出会い

かつて、恵殿という空飛ぶ島には天使がいた。だが、人間の傲慢さによりいつしか姿を消してしまった。

 魔物が蔓延る世界で絶望の闇に呑まれた人間達。しかし、まるで天使の生まれ変わりのように花御子が誕生し、地上に再び光が差した。彼らは天使の羽の代わりに背中から花を咲かせ、空を自由に駆けることができる。

 人間は彼らを救世主として崇めたが、やはり、その光は二度と地上に差すことはなくなった。



 ヒュウヒュウと花羽で風を切り裂きながらイブキは目的地に向かっていた。

 どのあたりまで来たかと時折下を見下ろせば、すりガラス越しのように地上が見える。

 工場の煙突からモクモクと黒煙が上がっているせいで、地上の空気はとても汚い。特に人間が住んでいるところは悲惨だ。

 よくこんな所で生活できるものだとイブキは常日頃思っていた。

 イブキよりずっと前に生まれた花御子は、「地上はもっと綺麗だった」とよく言っているが、イブキにとって別に暮らしているわけではないので、そんなことはどうでも良かった。

 だからといって、イブキは地上が嫌いなわけではない。

 いくつか好きな場所もある。今イブキが向かっているのも、まさにそんな場所だ。

 人里から離れた山の上。空気がとても澄んでいて、目いっぱい花羽を広げても気持ち悪くならない。

 人間が登るには少し険しいが、羽がある種族にとっては簡単に頂上につくことができる。

 この山の名前が何というのかはイブキは知らないし、調べる気もないが、この山の頂上の崖に腰掛けてぼうっと景色を眺めるのが最近のブームだった。

 

 イブキはつい数年前に生まれたばかりの花御子だ。

 イブキの他には数十名程度の花御子が恵殿に存在している。

 普段、彼らは美しいものが大好きな花姫のために、地上を巡っては宝石類を持ち帰っている。

 特に花石という宝石がお気に入りのようで、全世界にそれを献上するように求めているほどだ。

 イブキは生まれた時こそ、大好きだった花姫のために他の花御子と協力して地上を翔け舞わっていたが、今では「花姫の為に」なんてクソ喰らえだと思っていた。


 見渡す限り深緑と明青が広がる視界。単純な世界で何も煩わしくない。その反面、恵殿はやけに色鮮やかで、眩しくて、疲れる。

「……帰りたくないなぁ」

 膝の上で頬杖をつき、思わず出てきた言葉にフッと片方の口角があがる。

 別に花御子として生まれた事に不便を感じたことはない。むしろ、この世界において幸運だと言える。

 強い力を持ち、その力を生み出す強靭な肉体。

 魔物が蔓延る地上を優雅に見下ろす生活。

 イブキは、この大きな矛盾を抱えて生きているのが嫌なのだ。


 不意に真下から突風が吹き、イブキの真っ直ぐな銀髪を束ねたポニーテールが太陽の輝きを受けて煌めいた。

 この時にイブキは無意識に自分が俯いていた事と、下に大きな蜘蛛の巣があり、それに何かが絡まっている事に気がついた。

 何だろうと目を凝らしてじっと見てみると、それは恐らく人間のようであると分かった。

 糸でぐるぐる巻きにされており、もう大分衰弱している様子で、瞼を閉じピクリとも動かない。

 このまま溶かされて餌になるのも時間の問題かなと、イブキは崖の上から眺める。

「……!」

 ふと思い立って、自分の花羽から白とか青色の何枚かの花びらをちぎると、蜘蛛の巣の粘着部に触れない様に人間の近くまで舞い降りた。

 せめて苦しまない様にと、ちぎった花羽を人間の顔にふわりと被せる。

 どうせ死ぬ運命ならば、魔物に食べられる恐怖と苦痛を味わうよりも、眠る様に息を引き取った方がマシだろう。

 人間の浅くて速かった呼吸が次第に、深く、ゆっくりとしたものに変わっていく。

 イブキが自分の花を被せたのは窒息させようとしているわけではなく、花の匂いを嗅いでもらおうとしているのだ。

 花御子の花羽は、何も耐性のない人間の様な種族がその匂いを嗅ぐと、毒がゆっくりと全身に回りやがて死に至る。

 弱っている人間なら毒が回るのは早いだろう。


 すぅ、すぅと息が安らかなものに変わる。

 もう時間の問題だろう。あとはこの巣の主人がゆっくり戻ってくるのを祈るだけだと、イブキは立ち去ろうとする。

 

「ヘイ、ガール。置いていくつもり?」

 突然聞こえた軽快な声にイブキは開きかけた花羽を閉じ、周囲を見回す。

 だが、新たな来訪者はいない。いるのはイブキと、顔に花羽を被せられ、糸でぐるぐる巻きにされた弱くて哀れな人間だけ。

 一体、今の声は何だったんだろうとイブキは首を傾げる。

 

「これ、キミがくれたんでしょ?」

 再び同じ声が聞こえてくると、イブキの視界が一瞬白に染まった。それが、さっき自分がちぎった花羽が頭上から落ちてきたからだと気がつくのに少し時間がかかった。なぜなら、背後にその声の主が立っていたことに気を取られていたからだ。

 勢いよく振り返ると、そこにはイブキより頭一個分ほど小さい人間が立っていた。

 

「誰!?」

 反射的に言葉を浴びせたイブキに対して、その人間はとぼけた顔を浮かべると、イブキの花羽に顔を埋めた。

「え?な、何?」

 状況の掴めないイブキはただ混乱することしかできない。

 今のイブキに分かるのは、糸に絡められていた人間がいなくなっていることと、何故か自分の花羽に顔を埋めて深呼吸をしている人間がいることだけだ。

 そしてもう一つ付け加えるならば、その2人は容姿が一致していること。

 明るい金髪が渦巻いたショートカットに、量の多い睫毛。先程まで瞼に閉ざされていた瞳は、真っ黒だがその目は映るものをよく反射していた。

 

 「……フー、生き返った」

 ひとしきり花羽を嗅いで落ち着いたのか、その人間は先程まで死にかけていたとは思えないほど、フレンドリーによく喋り始めた。

「突然ごめんねー、もう生きるか死ぬか究極の状態だったからさ、偶然通りかかったキミに助けてもらおうとしたって訳」

「は、はぁ……」

「いや、私空気が綺麗じゃないとあんまり元気でなくってさ。なのに、ここ最近街中に居すぎちゃって。そんな時にこの山見つけてさー、『お、いい山あるじゃん!』って感じで頑張って登ってみたら、崖が崩れて、そのままこの蜘蛛の巣に捕まってたって感じで」

「あの」

「ほら、見える?あの崖!崩れた跡あるでしょ?ちょうど君が座ってたあたり!あれ絶対罠だよねー、頑張って登って、ちょっと休憩って思った矢先に崩れて蜘蛛の巣だよ?ひどくない?」

「…ねぇ」

「もー、ほんっとにキミがきてくれて良かった!しかも花御子だったなんて!すっごくラッキーだよ!」

「あの!もういい!?」


 マシンガンのように喋り出した人間に圧倒されながらも、イブキは場を制御しようとする。

 人間は大きな目をさらに大きく見開いて、口をキュッとつぐんでいる。


「あの…、えっと、何だ。その……」

 イブキは目の前の人間に色々と聞きたいことがあったが、今まで他人と10分以上会話をしたことがない上に、自分から話題を振ることなんてなかったので、言葉がうまく出てこなかった。

 

「えっと、……何で生きてるの?」

 イブキがやっとの思いで絞り出した、至極失礼な問いに目の前の人間は嫌な顔せずに笑みを浮かべて答える。

「あー、人生の目標みたいなこと?初対面の人に聞くには少し重たいテーマだけど、聞いちゃう?う〜ん、そうだなぁ。やっぱり楽しくありたいよね」

「いや、そういう意味じゃない」

「え?」

「私が聞きたいのは、えっと……何であの状態から花羽を嗅いで生きてるのってこと」

「あぁ!そっちね、ハイハイ……」

 イブキの鋭い追求に、腕を組んで神妙な面持ちで頷く人間。

 イブキは目の前に存在する未知に対して生唾を呑む。

 もしかしたら花御子の脅威となる新しい魔物かもしれない。だとすれば自分は今、とんでもない窮地にある。

 久しぶりに力を振るう時が来たのかもしれない。イブキの握り締めた拳に自然と力が入る。

「なんでだろうねー!分かんないや、アハッ!」

 しかし、拍子抜けしてしまうような返答にイブキは拳だけでなく全身の力が抜けていくようだった。

「分からないって…、そんなのアリ?」

「アリだよ!そんなことより、あなたの名前なんて言うの?」

「……イブキ。そういうあなたは?」

「イブキかぁ。いい名前だね、よろしく。私はアム!」

 はぐらかされた感が否めなかったが、イブキはこれ以上他者への踏み込み方が分からなかったので詮索することを諦め、差し出された手を大人しく握る。

 目の前でニコニコと屈託なく笑う目の前の小さな存在が、自分達の脅威になるなんてきっとありえないだろう。いつもの考えすぎだ。

 アムを捕らえていた強靭そうな蜘蛛の糸の無惨な残骸を視界の端に捉えつつも、イブキは一旦自分を納得させて、目の前の可愛い笑顔を見つめることに徹した。

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