かぞく

@sora_skyblue

ただいま

「今日からこの人が、お前の母さんだ。」

いきなり父親にそんなことを言われて、幼い僕は全く意味がわからなかった。

目の前には知らない女性。丸っこい顔にたれ気味の目をした彼女は、低い身長と優しく微笑んでいることも相まってか、大人しい印象を与える。

彼女自身も緊張しているのか、どこかソワソワとした様子で、父の紹介の後に軽く会釈をした。

「よ、よろしくね」

女性らしくも大人っぽい、柔らかく落ち着いた高めの声で、僕の方に笑いかけ、若干言葉を詰まらせながらもよろしくと言った彼女に、僕は何も返さず、ただぼーっとその顔を眺め、少ししてから俯いた。

それからしばらく、誰からも言葉は放たれず、少し気まずい空気が流れる。それでも僕は、この女性によろしくとは言いたくなかった。

言ったら、“本物の”母さんを、否定してしまいそうだから。

僕の母さんが、消えてしまうと思ったから。

母さんは、まだ小さい僕を遺して、交通事故で亡くなった。

僕が保育園で迎えを待ちながら友達と遊んでいる間、1人、夕飯の買い出しに行っていた母さんは、その帰り道、後ろから歩道側に向かって迫ってきていた居眠り運転のトラックと衝突し、その命を散らしてしまった。

顔は飛ばされた後に地面に叩きつけられてアスファルトに頬を擦ったぐらいで済んだが、体でトラックの巨体を受け止めて、即死だったらしく、救急車が駆けつけた頃には完全に手遅れの状態となっていた。

嘘だと思いたかった。きっと、電話口で父親と口裏合わせをして、本当はみんなでサプライズでも計画してるんじゃないかと。ただの悪い冗談だと、そう自分に言い聞かせた。

だけど、そんな僕の無謀な期待を、希望を砕いたのは、大きな棺桶と、布を顔に被せられた母さんだった。

棺に入った母さんは、死化粧のおかげで、生きていた頃の顔そのままだった。今にも目を開けそうなくらいに。ただ、腕や足、腰の骨ですら折れ、体は見るに堪えないものとなっていた。それが、僕に酷く現実を突きつけた。

それから数年して、父親が勝手に僕の母親と称するこの女性を連れてきた。

結局その女性が来た日は、向こうの挨拶だけで終わり、僕の方からよろしくとは言わなかった。いつの間にこの家に住むという話になっていたのか、彼女が父親の寝室に入っていく。父親はその姿を見届けると、リビングに1人取り残された状態で依然として黙って俯く僕に怒った様子で何か言ってきたが、頭に響く鈍痛と、こもったような耳鳴りが僕を襲うばかりで、父親の怒声に耳を傾ける余裕など微塵もなかった。

それから何年も、僕は彼女に宜しくは言わなかった。それどころか、おはようも、おやすみも、何一つ挨拶はせずに、ずっと避け続けた。当然、会話のひとつもしなかった。

それでも彼女は、僕の分のご飯も作って、洗濯もしてくれて、僕の母親であろうとしてくれた。

時々、会話をしようと何度か僕の名前を呼んだ。その度に、僕は彼女を睨みつけ、怒りに身を任せたような歩みで足早に彼女から離れ、自身の部屋にこもった。

耐えられなかった。ずっと居座り続けて、家事をして、母親気取りをしてくる女性のことも、善意で僕の世話をしてくれる彼女の愛を素直に受け取れない自分も、どう考えても彼女を受け入れてない僕を見ていながら、家族ごっこを続ける父親も。

16歳の秋、全部嫌になって、僕は家出した。

財布とスマホ、あとは万が一必要なものを家に忘れた時のために家の鍵、数着のかさばらない服、あとは歯ブラシなどの最低限の生活用品をまとめた袋を担いで、休日に友達の家に遊びにいくと嘘をついて家を飛び出し、二駅離れたネカフェに泊まることにした。

そんな家出生活は、そう長く続かなかった。

ネカフェで1晩すごし、2日目の夕方頃、コンビニに行って、ネカフェに戻る時、ちょうど入口に足を踏み入れようとしたところで、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。

振り返った先にいたのは、あの女性だった。彼女は泣き腫らしたのか真っ赤に染まった瞼の中の瞳に涙を溜め、こちらをじっと見つめて、思いっきりこちらに走ると、僕を抱きしめ、涙声で僕の名前を繰り返し、瞳にたまった雫を何粒も流し続けた。

僕はそんなオーバーな彼女の行動に硬直してしまい、言葉すら発せずにいた。

結局ネカフェの料金を払って、女性が乗ってきた車に乗ると、帰路についた。

「ごめんね。」

初めて出会った時と同じように、どちらからも言葉が発せられず数分ほどの沈黙が流れた後、彼女から話を切り出した。

「…何が?」

一瞬間を置いて、そう聞き返す。彼女の言葉に応答したのは初めてな気がする。なんで答えたのか、と聞かれれば、答えはわからない。沈黙が思いの外辛かったのかもしれないし、彼女を受け入れてみようという気分が湧いたのかもしれない。はたまた、特に理由なんてなくて、気が抜けて反射的に答えたのかもしれない。

そんな自分ですら答えを導き出せない可能性のことを悶々と1人考えていると、彼女から問いの答えが返ってくる。

「私が、あなたの母親になろうとしたから、あなたを苦しめたのよね。」

「…」

何も言えなかった。確かにそれもひとつ原因だが、それだけじゃない。頷くことも、首を振ることもしない代わりに、助手席の方から女性の方を向く。

「でもね、私はそれでも、貴方を愛したかったの。母親と呼ばれなくても、思われなくても、自己満足でも、あなたの母親らしい振る舞いをしたかった。」

何も喋らない僕に対して、彼女は言葉を紡ぎ続ける。彼女がこうやって僕に一方的に話をし続けるのは、割と昔からあったことだ。幼い僕が故意に無視していることに気づきながらも、今日あったこと、僕の誕生日のこと、クリスマスのこと、晩ご飯のメニューなどなど、ただずっと喋り続けていた。

「私はあなたの母親にはなれないのかもしれない。でも、あなたは私の息子だから。帰ったら、ご飯作るね。」

そう彼女がいい終わると同時に、家に着いた。先に車から降りて、鍵を開ける。父親はまだ仕事らしく、家にはまだ誰も居ない。それには少し安心した。

彼女にどう謝ったらいいかな、なんて考えている間に、ドアが開いて彼女が家に入る。

「夕飯、鳥の照り焼きでいい?」

それは、僕の大好物だ。小さく首を縦に振ったあと、手を洗って、テーブルを軽く綺麗にし、食卓を整える。

しばらくスマホを眺めていると、彼女の小さな悲鳴が聞こえてきた。食器でも落としたのだろうか、と思ったが、そうではないとすぐに悟れた。なぜなら何かが衝突し破損する音は聞こえなかったし、彼女の悲鳴は声を外に長く勢いよく発するようなものではなく、まるで今更それに気づいたような、短く切るような悲鳴だったから。僕がそちらをむくより先に、彼女が料理を持ってこちらに歩いてくる。

「お塩とお砂糖…間違えちゃった」

バツが悪そうな顔をした彼女が、そう言って皿に盛られた料理を出す。僕はそれを口にする。

嫌にしょっぱいその料理。でも、不思議と心は暖かくて、思わず頬が綻ぶ。

「美味しいよ。母さん」

「…今、なんて?」

少し料理から顔を上げると、いつもは垂れ目で優しい印象を与える瞳を大きく見開いて、同じように口も開け、驚いたような顔で涙を流し、こちらを見つめながらそう質問する“かあさん”がいた。

「だから、母さんの料理、美味しいよって。」

そう言い終えると同時に、かあさんは僕を抱きしめて、小さくかすれた声で「ありがとう」と呟いた。

その日は父さんが帰ってくるのが遅く、かあさんと僕の2人で食事をした。米の甘さか、はたまた心に広がる幸せのおかげか、しょっぱかった料理はどこか甘く感じた。

ただいま、かあさん。

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