笑4



 イコリスが鼻を出してから十分も経たないうちに、馬車はフラーグ学院へ着いた。 

 ジェイサム以外の御者だと、倍の時間はかかるだろう。彼の運転技術がとても高いからこそ早く着いたのだが、イコリスは充実したひと時が終わって残念そうだ。


 フラーグ学院は約2メートルの高い壁で敷地全体を囲っている。現在は春休みなので、いつもなら正面の大型引戸の門扉は閉じられているが、王侯貴族の事前登校日である今日は解放されていた。


「袋、預かりますよ。」

 馬車を降りたイコリスにジェイサムが声をかける。

「え?でも・・・。」

「大丈夫。イコリスお嬢様はたくさん努力なさってきた。信じています。」

「っ!。」

 イコリスはこくりと頷いた後に、丸い扇子を顔の前に持ち、空いている方の手でゆっくりと被っている黒い袋を脱いだ。

 扇子で鼻と口をしっかり隠し、青紫の瞳でジェイサムを見つめながら袋を渡す彼女は、訓練通り無表情だった。

 俺は袋を被ったまま持ってきたマスクを着け、それから袋を脱ぎジェイサムに預けた。


「いってきますっ。」

 門扉へと歩くイコリスは振り返らず、ジェイサムに勇ましく言った。

「いってらっしゃいっ。」

 ぶんぶんと手を振って見送るジェイサムへ、決して後ろは見ないイコリスの代わりに俺が小さく手を振った。


 

 敷地内へ入り少し歩くと、立派な両開きの大きな門が見えてきた。

 学院を囲む塀に設けられた引戸の門扉は、校門ではない。四本の門柱に曲線を描いた屋根を乗せ、扉や欄間、屋根に龍・鳳凰など架空の霊獣が装飾された高さ8メートルのこの両開き門が、強制力を執行するフラーグ学院の校門である。

 近づいていくと校門と連なる生垣の前に、金髪碧眼の王太子、ファウスト・オウラ7世が立っていた。


「やあ、イコリス。サイナス。」

 優雅に佇むファウストは、王族の金色と黒の二重線を詰襟と袖口に配した制服を着ていた。

 手には金色の刺繍が施された白い手袋をしている。短髪なのに髪留めを使って斜めに流した前髪を固定する髪型は、あの収穫祭の事件以後、継続されていることだ。


「ごきげんよう。ファウスト殿下。」

 王族に魅了は効かないが、丸い扇子を下げないままイコリスが挨拶する。

「畏まらなくていいよ。呼び捨てで・・・。たぬ・・ほ?その文字、どう読むの?」

 扇子を指さし訊ねるファウストの反応が、目論見通りだとイコリスは俺に親指を立て目配せしてきた。


「文字に意味は無いらしいですよ。関心を顔から逸らす効果を狙ってるそうです。」

 イコリスが今にもほくそ笑みそうなので、俺が説明する。


「なるほど。・・・サイナス、敬語にしなくて良いから。普通に話してよ。その扇子だが常時文字を見せるより、いざという時に見せた方が効果的じゃないか?関心が向くのは初見だけだろう。窮地に陥ったら、文字を見せれば良い。裏面にも文字は書いてあるかい?」

「裏は無地だけど・・・。扇子を裏返すの?裏返す時に顔が見えるじゃない。」

「素早く返すと表情は見えないよ。やってみて。」


 怪訝そうにしながらイコリス扇子を裏返す。

「もっと早く。」

 バッ

 扇子から風を切る音が出る。

「もっともっと早く。」

 バッ

 平たく丸い形状の扇面は、長い柄のおかげで予想以上に素早くひっくり返すことが出来た。

「もっと早く出来るはずだっ。」

 バッバッバッバッ

「最後のは良かった。ちゃんと隠れてた。回転が早くて顔の下半分、見えなかったよ。」


「本当?サイナス、帰ったら特訓よ。必ず習得するわ。」

 ファウストの提案を受け入れたイコリスは、文字の書いていない扇子の裏を表側にして、顔の前に持って言った。


 顔が見えないよう、いかに早く丸い扇子を裏返すか挑戦するイコリスの姿は、大事な所を隠した丸いお盆を回転させる演芸を、どうしても想起してしまう。俺は目尻を潤ませて複雑な思いで言った。

「・・・強制力に、それが扇子と認められたらね・・・。」

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