我が子をたずねて三千世界

カルムナ

序章

プロローグ

どうしようも無い息苦しさ、逃げられない現実。それらは私を壊そうと蝕み続けるが、それでも耐えるしかない。


ひっひっふーとラマーズ法に則って呼吸を繰り返す。時たま意識が飛びそうになり、朦朧とした頭が走馬灯を生み出す。

まるで、私の人生はここまでとでも言うように。

 

---


高校生までは、何とも平凡で特筆すべき事もない人生だった。

普通の家庭に生まれ、そこそこ恵まれた人間関係の中で育ち、病むこともグレることもなく平穏に過ごしてきた。

それは恐らく、ささやかではあったものの、"幸福"と呼べる人生だったのだろう。


大学に入ってからは、それが少し変わったように思える。

そう、愛する人ができたのだ。

 

その出会いは偶然で、大学でたまたま同じ講義を取ったところから。


講義内のグループワークで話したことがきっかけだった。

最初は普通の男性、特に何も特別な感情は抱いておらず、ただの知り合いにすぎなかった。

しかし、彼はその頃から私に特別な感情を抱いていたという。

そんな様子は微塵も見せなかったのに。そう言うと、彼は照れくさそうに笑った。

「いやいや、バレないよう必死に隠していたんだよ。」


同じ講義であいさつをする関係から、一緒に図書館で課題をする仲、共に食事をする仲、そしてプライベートで遊ぶ仲に。そこまで進むのに1か月もかからなかったように思える。

そこまでくればもう、彼の気持ちには流石に気づくというものだ。ある時ちょっと高めの、しかしこじんまりとしたレストランで食事に誘われ、その時に告白された。

私は驚いた。てっきりもう付き合っていると思っていたものだから。素直にそう言った時の彼は拍子抜けしたような、でもよく考えればそれもそうか、とはにかんだ笑顔は今でも覚えている。


2人で過ごす時間は矢のごとし、気が付けば二人とも大学を出て、社会人となっていた。全く異なる業界に就職した私たちは大学という接点を失い、会える日は休日のみ。

大学生の頃は毎日会えたのになぁと、会える時間が無くなったことに悲しみ、もっと会いたいと我儘をこぼせば、「じゃあ、一緒に住むか。」と軽々しく言ってのけた。

私が驚く暇も与えず、彼は手早くいい物件を探し、引っ越しの手続きを進めてきた。何でも、元々こっそり同棲する予定を立てていたらしい。

何よそれ、もう少し早く教えてくれたってよかったじゃないの。そう拗ねる私の髪を彼は笑って撫でた。



彼はゲーム会社に就職していた。小さい会社で知り合いが作った企業だという。


彼は昔からゲームが好きだった。アクションにRPG、シミュレーションにノベル。どんな形であれ新しいゲームが発売されたとあればプレイしていたし、私を誘って二人でプレイすることも多かった。

元々ゲームにそこまで興味が無かったものの、彼の熱心な勧誘に負け、私もまた軽いマニアになっていた。

新作の面白いゲームが発売されるという情報を得れば、直ぐに彼に共有し、PCゲームからコンシューマーゲームまで幅広くプレイした。


その一方で、ゲームを作ることにも彼は情熱を注いでいた。

彼は大学のゲーム制作サークルにも所属していて、よくプログラムやデザインのことを熱心に話してくれた。私は当然知らない世界だから適当に相槌を打つくらいしかできなかったが、彼が楽しそうにしている姿には癒されるものだ。

彼の作るゲームをプレイしたことは何度もある。彼の世界観は独特なのか、全体的にほの暗いが、救いも幸せもあるようなハッピーエンドのものが多い印象だ。

そんな彼の世界観が大好きで、彼がゲームを作ったと聞いた時には率先してプレイしにいったものだ。


そんな中、彼の何世代か前の先輩がゲーム会社を立ち上げたらしい。

まだまだ小さい会社ではあるものの、サークルでの人脈や配信者による広告効果を活かし、それなりに上手くやっているとの事。

彼は、そこに誘われる形で入社した。大企業に最初から入るよりも、自分の作りたいゲームを早く形にできるのではないか、やりたいことを実現できるのではないかと思ったようで、私も彼の夢を応援することにした。


入社後から、彼は自分が理想とするゲームを追求し始めた。以前から形は決まっていたらしい。

王道ファンタジーもののRPG、彼らしい夢だ。


彼は私にも、何度か自分の夢を語っていた。いつかゲームで作りたい世界があるのだ、と。自分の世界観を活かした、ストーリー重視のゲームを作ってみたいと。


勿論、最初から彼の意見が通されたわけではない。入社して暫くは会社の意向に沿いながら幾つかのゲーム制作に携わった。そうして何年も経験を積み、やがて彼はその真面目さを買われ、新しいゲーム開発チームのリーダーに抜擢された。

若くして選ばれたのは非常に幸運だったに違いない。彼はこの上なく喜んだし、そんな彼が誇らしくて私も一緒に喜んだ。


その日はお祝いに二人で小さいケーキを一緒に食べ、そしてその翌日、彼は私の夫となった。


一方私と言えば、特別仕事に愛着があったわけではないものの、お給料は安定していたし、職場環境も良かった。


いつものように仕事を終え、真っ直ぐ家に帰ろうか、いや少しスーパーで買い物をしてからにしようか、そう考えながら立ち上がった時、ふらりと足元が揺らめいた。低いヒールがいつもより頼りない。血の気が一瞬失せ、体のコントロールを失ったように倒れ込んだ。


同僚が私の名前を呼び、急いで支えに来る。大丈夫か、何かあったのか、そう心配そうに顔を覗き込む同僚に問題ないから、もう収まったと手を振る。

実際よろめいたのは一瞬で、問題なく立ち上がって周囲を見渡す。他の人も心配そうな顔をしていたが、私が笑顔でご心配おかけしました、と言うと安心したように目線を外した。


とはいったものの、家に帰ってからも軽い不調は続いた。軽い吐き気とめまいの続く、調子の悪そうな私に夫は心底心配し、病院へ行くように強く勧めた。

いや、勧めるというよりは若干脅迫に近いものがあった。送っていくから、絶対に放置するな、そう強く私に約束させていつもより早く寝るように促された。幸い明日は休日だ。朝一番で病院に行こう。


ところで、明日は一体何科に行けばいいんだろう。



「妊娠、ですね。」


言われた直後は、あまり実感が沸かなかった。そうなのか、まあそうなることもあるだろうな。

そんな気持ちだったのに、彼氏に大喜びされ、帰りの車で今後どうしようか、どんな子になるかな、そんなことを延々と話されながら家につき、何かあるといけないから今のうちに安静にとベッドに横えられた時、急に何かが込み上げてきた。

ああ、このお腹に、新しい命が宿ったのかと。


嬉しさで急にボロボロと泣きだす私に、彼氏が今!?と驚き急いで涙をぬぐい、それでも止まらないのを見ると、黙って抱き締めてくれた。涙が移ってしまったのが、彼も急にボロボロ泣きだし、二人で黙ってひたすら泣いた。


今思えば、これが人生で一番幸せな時期だっただろう。


その後、夫は今までに加え更に仕事に励むようになり、しかし一方で家事手伝いも多めにこなすようになった。私が何か手伝おうとするたびに、「いやいや、君はゆっくり休んでいてね。」と座らされる。それが少しもどかしくて、でもその優しさが嬉しくて、ありがとう、とその好意に甘えた。なんていい夫なんだ、きっといい父になるに違いないと内心にやついていたものだ。


妊娠してから特に危ういことも無く、お腹の子はすくすくと育っていった。更にお腹は大きくなり、誰が見ても妊娠しているとはっきりわかる。

たまに動くのが体全体に伝わってきて、愛おしさにたまらなくなる。外出先でベビーグッズを見ると、あれもこれも欲しくなってしまう。

まだ顔もみていないのに、世界一可愛いに違いないと夫に話せば、気が早いのでは?と笑って呆れられたが、同時に、君との子ならきっと世界一かわいいだろうね、と優しくお腹を撫でられた。


最近夫の仕事は多忙を極めるようで、残業する日が少し増えた。何やらストーリー制作で行き詰っている個所があるらしい。私は制作について何も知らないが、製品を1から作るのだからトラブルはつきものだろうことは予想できる。

それでも、仕事が終わり次第一目散に帰って来てくれるし、仕事で疲れているだろうに、率先して家事をやってくれている。私としては、子供が生まれた後のことも考えて、体を大事にして欲しいのだが...。


「自分の体調は分かっているつもりだし、休みだってちゃんと取っているよ。君の方こそ、出産に備えて体力温存しとかないとダメだよ。」

そういわれてしまえば特に言い返せることも無く、ずっと甘えっぱなしだ。


---

仕事も産休を取り、出産予定日まであと数週間。今のところ、流産の危険もなく順調だ。

毎日体の調子を記録し、軽い家事をこなし、夫の帰りを待つ。あともう少し、もう少しでこの子と対面できる。


そんなある日、私のスマホに着信が入った。

なんだ、夫からの電話か。

どうしたんだろう、そろそろ仕事が終わって帰る時間のはずだけれど...。少しの不安を抱えながら画面をタップする。


「もしもし、奥さんですか?大変です!旦那さんが!」

穏やかな気持ちで電話に出た瞬間、背後から繰り返されるサイレンが耳をつんざき、それに覆い被さるようにノイズ交じりに焦った男の声がする。明らかに旦那の声ではない。

なぜ夫のスマホから知らない男性の声が?なぜ私の番号に?どうしてそんなに焦っているのか?


するりと熱が体から失われていく。スマホを持つ指が冷たくしびれてくる。

頭の芯が考えることを拒否する。夫に何かがあった?そんなことがあってたまるか。

最悪の可能性が頭をよぎる。いや、まだ何があったか聞いていない。もしかしたら、ただ酔っぱらって迎えに来てくれというお願いかもしれない。そうだ、そうに違いない。

今日だって元気に出社していったじゃないか。注意深い性格の夫に限って、万が一の出来事があるはずない。


人は焦ると正常な思考回路が出来なくなる。例え背後で煩くサイレンが鳴り響き、男の様子が尋常でなかったとしても、それを何もなかったかのように無視して現実から目をそむけたくなるものだ。だって、まともに受け入れてしまえば絶望しかないことが分かってるから。


「奥さん、旦那さんが!トラックに轢かれてしまって!救急車、救急車に運ばれて、それで...とにかく、病院に来てください!お願いします!」

現実はどこまでも無慈悲で、頭を強く殴られたようなショックが襲う。轢かれる?トラックに?そんなの、どうして...。

いや、今は焦っている場合ではない。直ぐに行かなければ。意外に軽傷かもしれない。


淡い期待を抱き急いで病院へタクシーで向かい、病室へ向かう。身重で動くのが辛いが、今はそんなこと言ってる暇はない。

無機質な無音の廊下を歩く度、硬い足音と生々しい心臓の音が鳴り響く。いつもは温かいお腹の中が、今だけはぬるく感じられた。


病室に入ると目に飛び込んできたのは、真っ白な部屋と、周期的な音を発する見慣れぬ機械と、数人の看護師と医者と、

その奥には布のかぶった、


「あなた!」


一斉に顔がこちらへ向く。それと同時に向けられる、哀れみの表情。


察した。



その後の記憶はない。ただ冷え切った手で夫の死亡届を書いて、それから色々な手続きをして、こみ上げる現実を受け入れないように、考えないようにして。

まだ現実を受け入れられずに、どこかふわふわとした意識の中をさまよっているような感覚。それでも、止まらぬ胎児の鼓動が夢でないことを物語っている。


それでようやく家に帰った後、ようやく一人で息をついて、ベッドに横になって。


電気をつける元気もない。真っ暗な部屋で、ひとりぼっち。

隣にあるはずのぬくもりも、静かな寝息も、布団の擦れる音も何もかもが感じられない。


苦しい。

お腹が苦しい。心が苦しい。


もう夫はこの世にいない。昨日まであんなに笑っていたのに、あんなにこれからの話をしていたのに。

突然いなくなるなんて聞いてない。今日だって、「早めに帰ってくるから。」って言ってたもの。



それに、人生だってこれからだったじゃないか。これからこの子を一緒に育てて、苦労して、山も谷も何とか二人で乗り越えていくって誓った。

仕事だってそうでしょ?これからプロジェクトを進めて、理想のゲームをこの世に出して、皆にプレイしてもらうんじゃなかったのか。

それを全部捨てて突然どこか行くなんて、そんなの、そんなの、おかしいじゃない。


無意識にお腹をさすり、両手で抱える。

この子の将来はどうなるの?


私の不安に共鳴するように、内臓が圧迫される。

慌てて高ぶった感情を鎮めようと深呼吸を繰り返す。


「貴方だけは、守るから。」

この子を守れるのは私しかいない。

そうは言ったものの、私一人で守れるのか?貴方がいないのに?


お金が足りなくなったら?私が病気で倒れたりしたら?そもそも私一人でこの子を養っていけるのか?

この子自信が何か重い病気や障害を持って生まれるかもしれない。不慮の事故に会ってしまうかもしれない。不安の種なんて考えれば考える程出てくるというのに。


いや、それでも何とかするしかないじゃない。

きっと色々な苦労はするだろう。普通の家庭ではしないような苦労ばかりだろう。


私は愛する存在を一人失った。それでも、夫との子がいる。

愛する子供がまだいる。私は一人じゃない。

大丈夫。私がしっかりしなければ。


何度も何度もゆっくりとお腹をさすり、壊れ物を抱く様に抱き締める。

私がもう少し、大きく強い存在だったらよかったのに。涙が溢れ出てくる。何度も嗚咽が込み上げ、体が震える。

それでも大丈夫だ。愛する子供がいるから。


---


その時は突然やってきた。

いや、予測はできていた。それでも、予定よりも大分早かったように思える。

急いでタクシーを自宅に呼び、病院へ向かう。

手際よく横に寝かされ、横でテキパキと動く看護師を横目に、迫りくる痛みの波にひたすら耐える。

気が遠くなるほど繰り返される感覚が頭を不安と興奮で埋め尽くす。何時間耐えたかも分からない、時間が無限に引き延ばされたような感覚に陥る。それでも今やめるなんてことはできない。続けるしかない。

大丈夫、一人でやってやる。


気が付いたら破水し、分娩台へと上げられる。

正直もう自分がどうなっているか分からない、ただ助産師に言われるように呼吸をし、いきみ、それをひたすら繰り返すだけだ。

痛い、痛い、苦しい。

今にも潰れてしまいそうな内臓が悲鳴を上げながらのたうち回る。びちゃびちゃと液体が流れ落ちる音をかき消すように冷静な人の声が脳髄で木霊する。

それでもリズムを崩さないように、ゆっくりと押し出していく。


「お母さん!意識をしっかり!」

気を失いかけながらもいきみ続ける。もう大分いきんだはずなのに、まだ終わらない。

ああ、こんなにお産ってしんどいものだったのか。私の母もこんなしんどい思いをして産んでくれたんだな。今度感謝の気持ちを伝えなければ。

そうやって、余りに続く苦しみに、ついに達観し始める始末だ。

いつになったら終わるのか、と永遠にも思える時間に疑問を持ち始めたその時、圧迫感がぬるりと消え去った。


「産まれました!男の子です!」

直後に赤子の声が部屋中に響き渡った。

ああよかった、無事に生まれたのか。よかった、本当に。

このまま一生出てこなかったらどうしようかと悩んでいたところだ。


心底安心しきって頭が真っ白に染まっていく。

思考することも感情を抱くことも面倒くさい。ただふわふわと楽な方へ意識が逃げて行く。


「大変です、血が止まりません!」

周囲の人が緊迫した声でバタバタと慌てだす。

何をそんなに焦っているのか、赤子は無事に生まれたんでしょう?

それより私は眠くなってきた、手足もしびれてきた。いや、大仕事を終えたから当然か。

早く寝かせてくれ、もう疲れたんだ。


「直ぐに輸血を!」

輸血?ああ、危ないのは私の方か。生臭い臭いが充満していたが、そんなにも出血していたのか。


どこか他人事で、自分が今死ぬという状況もまた夢のように思えた。そういや夫が事故に会った時もそうだったな。

全てが終わって、家に帰ってからようやく実感できたんだっけ?それじゃあ、今私が死にそうなことを実感できなくても仕方ないな。

このまま何も考えずに、何もせずに身を任せれば楽になれるんじゃないか?


自分はここで死ぬんだろうか。愛する夫の後を追って?それはそれでいいかもしれない。だってもう、嘆き悲しむこともないんだから。

今までの思い出に浸り、未来から目を背け続ける罪悪感に苛まれることもない。


愛する我が子をここに残して?それはダメだ。

折角生まれたこの命、一人でこの世に置いて行きたくない。この子には世界を見せてあげる親が必要なんだ。

まだ生きて、この子と沢山の時間を過ごしたい。幸せとは何か、一緒に探していきたい。

天国にいる夫に胸を張れるように、この子を育て上げるって決意したところなのに。


このまま黙って死んでたまるか。

血が足りないのか、目はもう見えない。耳は...少しだけ聞こえる。

我が子はどこにいる?愛しい泣き声が雑音に紛れて聞こえない。

お願い、もう少しだけ一緒に居させて。まだ愛してるって伝えていないの。


そう願う声も、最早呼吸にすらならない。乾いた唇が微かに震えるだけ。

最早苦しいとも、痛いとも思わない。焦りと後悔と、無駄な願いが募るだけ。

それでも、私は最期まで諦めない。


「どうか...」

言葉は続かなかった。

ただ迫りくる暗闇に、静かに身を寄せた。


神様、どうか、あの子を守ってください。

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