空よりもっと遠くの場所で
夢星らい
第1話
私は恋をしたことがない。いや、この言い方には語弊がある。私は恋がわからない。いままで生きてきた中で既に世間の言う恋というものを経験しているかもしれないが、私がそれを恋と判断することはできない。学校から帰る電車の中、私はそんなことをふと思った。これまで恋だと感じる機会はたくさんあった。恋愛に憧れていないわけではないので、「恋をしている」という事実があることがたまらなく幸せだった。幸福以上の何かに包まれ、満たされていた。どんな些細なことでも話してくれる、鮮やかにころころ変わる顔を持った、あの人のことが今でも愛おしい。しかしそれは普通とは少し異なった条件によって毎回恋ではない何かに変化していった。
そんなことを考えていると電車は私の最寄り駅に停車した。閑散とした駅のホームに降りると考えていた事がすべて吹き飛ぶような寒さが私を覆った。悩みが吹き飛んだまま階段を登り、駅から自分の家までの道につく。ぼーっとしながら空を見上げていたら、冷たい風が頭骨に吹き込んでくるとともにさっきまで考えていたことを思い出した。どうして私は恋がわからないのだろう。常識に囚われすぎているのだろうか。ぐちゃぐちゃになった思考をきれいに形作ろうとしても、どうも納得いかない。
「あっ、彩!」
顰めっ面の後ろから声が降ってきた。顔が綻んで声のほうへ振り向いた。こちらの方へ小走りで駆け寄ってくる。こんなに寒く夜も更けた頃に外へ出ているのはきっと彼女だけだろう。夜遅くに散歩をするのも夜空の星を眺めるのが好きだかららしい。それに冬は空気が澄んでいるからきれいに見えるとか、そんな話を目をぼんやりと輝かせて話すのだ。そんな彼女の目もまた、恒星のようだった。
「もー。また今日も遅いじゃん。今度は何してたの?」
眉の頭を下げ、頬を膨らませて疑わしい顔でこちらを覗いてきた。今日もまた、生徒会の仕事でいそがしかったのだ。むしろ、こちらのほうこそいいたいことがある。夜遅くに出歩いていては危ない。毎日帰ってくるときに外で見かけるため、いつか事件にでも巻き込まれないかとヒヤヒヤする。こんなことをわざわざいうのも、彼女の容貌が可愛らしいからである。肩甲骨ほどまでの長さの黒い髪をハーフアップに結い、薄茶色のコートを着た彼女は雑誌で見たことがある。愛されオーラとでも言えるのではないだろうか、彼女の笑顔や仕草は春の黄色い日の光のようなものを纏っていた。美しいというよりは可愛らしいという形容がぴったりな彼女には、リスクも与えられた。
「そっちこそ。星空が見たいのは分かるけど夜道は危ないんだから。ね?」
「平気だもん!だって、今は彩がいるでしょ?」
そういうことではないがとは思ったが眩しい笑顔には逆らえなかった。私も今後なるべく結宇が外に出ている時間帯に帰ることにした。
いつも通り、空を指でなぞる。私が一番好きな星座であるこいぬ座は冬の星座である。冬の間はどんな日でも空を見上げてこいぬ座を探す。南の空に浮かぶ2つの星はまったくこいぬには見えないけれど、それでも1等星を持っていることに何か力強さがあるような気がして、そうしたらいつの間にか好きになっていた。私みたいなちっぽけな存在でも一等星のように輝ける何かがあるのかもしれないと希望を持てた。こいぬ座は私の希望の光でもある。それを見て、毎日自分を元気づけていた。結宇も呆然とした顔で空を見る私のことを微笑んで見守ってくれていた。
「――ほんとにこいぬ座好きだよね」
「小さくてもおおいぬ座といっしょに狩りをしてたし、星座になった理由はちょっとあれだけど、プロキオンが私にとっては太陽くらい輝いて見えるんだ。その光が私の明日を明るい方へ導いてくれる――なんだかカッコつけちゃったみたいになっちゃった」
「いやいや、私さ、彩のそういうところ好きだよ。めっちゃいいと思う」
結宇はいつも私を肯定してくれた。それでも自分はいつでも悲観的で、なんだか申し訳なくなってくる。私はいつも結宇に助けられていた。
また今日も星座や星の話を聞いて家に帰った。家の中では冷めたボロネーゼの匂いが漂っている。1日の疲れや汚れを洗面所で洗い流してから食卓に向かう。無感情なボロネーゼを電子レンジで温めてから舌に置く。ボロネーゼが嫌いな訳では無い。独りで食べることが嫌いなのだ。親は家にいるが、どちらもずっと各々の部屋に引きこもって仕事か何かをしている。顔を合わせることも中学二年生のときになくなった。最初のうちは悲しいとも思ったが今はもう何も感じない。家族のこと以外も無関心になった。ただ、一つだけまだ追い求めているものがある。それは、恋。恋を経験するまで死ねない。むしろ恋で死にたい。人によってはそんなことが生きる理由だなんておかしいと言うだろう。わかっている。でも、それでも私は誰かと二人で幸せになって、一生いっしょにいたい。――そんなことを思っていたら、悲しくなってきた。
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