10 知識は身を助く①

 日向の笑みにくらくらしつつ、四葩はなけなしの理性で、滅相もないと返す。

 しかし疑問が湧く。散々やりたい放題振る舞い、いきなり婚約解消を申し込んだ四葩に、なぜ屈託なく接してくれるのだろうか。

 一生口をきかないほど、恨まれていてもおかしくはないと思っていた。


『もう忘れたんじゃないか? 嫁候補は何人もいるんだし』


 それはそれで嫌だ。


「四葩、宮仕になったんだな」


 日向に名前を呼ばれ、四葩の胸は小さく跳ねた。喜びと戸惑い、ふたつの感情に揺れながら改めて礼をとる。


「はい。菫宮様にお仕えしております」

「そうか。こよりはわがままを言う時もあるが、根は素直だ。どうかよろしく頼む」

「重々心得ております。ただ……」

「なんだ。こよりのことならなんでも聞く。話してみろ」


 日向の顔つきがわずかに硬くなる。こよりが昨日寝込んでいたことは、彼の耳にも入っているだろう。


「はい。今朝は朝餉を召し上がりになりませんでした。昨日ずっと寝ていて、お腹が空いていないと申されて……。気になっております」

「出かけるのを前から楽しみにしていたからな。かわいそうに……。わかった。俺の身が空いたら、少し構いにいこう。こよりにそう伝えてくれ」

「それは良いお考えです! 菫宮様もきっとお喜びになられます」


 そこで会話は途切れて、沈黙が降りた。とたんに四葩は気恥ずかしくなり、視線を落とす。日向がずっと、ともすれば婚約者だった時以上におだやかな目をしていて、余計に落ち着かなかった。


「あの、東宮様……」


 どうして私に、変わらず接してくれるのですか。


「ん? なんだ」

「いえ。なんでもありません……」


 昨日の今日で、婚約のことを蒸し返すような勇気は出なかった。それにその質問自体がなにかを期待しているようで、浅ましく情けない。

 彼から身を引くと決めたのだから。




「失礼します。あの、こちらは台盤所だいばんどころであってますか?」


 日向と別れ、四葩が向かったのは東対屋の一角にある台盤所――前世でいうキッチンだ。

 四葩が顔を出すと、ひとり粗悪な米粒を弾いていた男性が、慌てて立ち上がった。


「こ、これはこれは四葩様。ここは台盤所で間違いねえです……! 一体どんなご用で」

「あなたがここをまとめている方ですか?」

「へえ。庖丁人ほうちょうにんの柳と言います。お見知りおきを」


 柳のやけにかしこまった態度に、四葩は苦笑いを浮かべた。


「そんなに堅くならないでください。私はもう東宮様の婚約者ではありません。今はただの宮仕です」

「へえ。もちろん存じてますとも。ですがその……すぐには態度を変えられねえもんで、気にしねえでください」


 気にするなと言いながら、柳は四葩の顔をちらちらとうかがってきた。四葩が首をかしげると、今度は口を押さえて目を泳がせる。


『はーん。こいつ、陽向のこと気に入ってるんだな』


 月読がからかうように言う。そんなバカなと思ったが、四葩が近づくと柳は慌てて離れ、網かごをかぶった。

 まるで少し前の自分を見ているようだ。

 そういえば四葩は性格はアレでも、何人も男をたぶらかす器量良しだった。


『まあ、嫌われてるよりはいいだろ』


 それもそうかと思い直し、四葩は柳と妙に距離があいたまま話を進めた。


「今朝、菫宮様が朝餉をほとんど召し上がらなかったことは知っていますよね。ですが黒豆だけは、少し口にされたのです。もしかしたら甘いものなら、もっと召し上がってもらえるかと思い、相談にきたのですが」

「それなら、夕餉には野いちごをお出ししましょうか。ちょうど昨日、採れたものがありますぜ」

「そうですね。果物もいいのですが……。手を加えたもののほうが喜ばれると思うんです。なのでちょっと私に、台盤所を貸してもらえないでしょうか? 菫宮様のために」

「四葩様自ら!? 羨ま、げふんげふん! もちろん協力させてもらいます。菫宮様の食の細さは俺も気がかりでした。でもなにを作るおつもりで?」

「とびきり甘いお菓子です。よかったら柳殿も手伝ってください!」


 材料は団子を作る時などに使う米粉、砂糖代わりの甘葛煎あまづらせん、前世のバターに近いという乳製品、鶏卵に野いちごだ。

 まずは底の浅い須恵器すえきに蘇を入れてやわらかくほぐし、甘葛煎と卵を入れて混ぜ合わせる。次に米粉を加え全体をなじませたら、野いちごを入れる。

 ここで少しまとまりが悪かったので、牛乳を加えて整えた。あとはできた生地を小さく分けて、手で丸く形成していく。


「柳殿、かまどのほうはどうですか?」

「いつでもいいですぜ、四葩様!」


 柳にはかまどに火を入れ、鉄鍋をかけてもらっておいた。そこへ生地をぺたぺた置いていく。火はなるべく弱火だ。その加減は、熟練の庖丁人である柳に任せた。

 両面がキツネ色になるまで焼き上げたら、完成だ。


「できました! 野いちごのクッ――焼き菓子です!」

「これはまた珍しいもんですね。米粉を使う菓子はまがりや粉熟ふずくなら知ってますが、こんなにいい香りはしねえです」

「よかったら、ひとつ味見してみてください」


 四葩は懐紙に菓子を取り、柳に差し出した。


「い、いいんですかい?」

「はい。菫宮様にお出しできるか、判断してください」

「ではひとつ、失敬して……」

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