09 私の推し様
『でもその元気もないんじゃあな。注射とか点滴なんてものもないし』
四葩は目を丸め、声が聞こえてきた壁を見た。
「なんでそれ知ってるの。私の前世の医療技術なのに」
『今さらか。俺はお前に取り憑いてて、お前の心も読めるんだぞ。前世のことだってお見通しだ。ずっと陽向って呼んでただろ』
「でも、なんかもっと驚きとかないの? あなたにとっては未知の世界のことでしょ」
沈黙が流れる。気のせいか冷めた視線を感じた。
『それ言うの。俺こそが最大の未知の存在なのに』
「え、その自覚はあったんだ……。もしかして、あなたは記憶を失った月読なの?」
『さあね。今は俺のことよりこよりだろ』
はぐらかされた。しかも声にトゲがあって、ちょっと怒っている。
呼びかけても返事をしないので、四葩は思考を戻した。
食べ物をまったく受けつけないのであれば手の出しようもないが、こよりは黒豆だけは食べられた。黒豆に似た料理なら、また食べてくれるかもしれない。
「うん。試す価値はある」
四葩は立ち上がり、渡り廊下を駆け抜けた。その姿を庭師の男性に見られ、慌てて歩調をゆるめる。
中央の寝殿を過ぎ、東の
「朝稽古が終わったところですか?」
「まあ、すごい汗ですわね」
「私がお拭きいたしましょうか」
宮仕の女性たちだ。ひとりの男性を捕まえて話し込んでいる。
「い、いや結構だ。自分でやる。それよりそろそろ通してくれないか」
高い声に混じり、低く芯の通った声が聞こえて、四葩は思わず寝殿の柱に隠れた。おそるおそる物影から顔だけ覗かせる。
『おい、どうした。かなり不審者だぞ』
「はわ……っ」
聞き間違いではなかった。宮仕に囲まれているのは、元婚約者の日向だ。刀の稽古をしていたらしく袴だけ身につけ、上裸に手ぬぐいをかけている。
妹と似て色白な肌に浮かぶ汗がまぶしい。鍛えた体は、それ自体が宝飾のように輝いて美しかった。
目鼻立ちがはっきりした顔。それを引き締める艶やかな黒髪。掻き上げた髪の流れも、頬に落ちるその影も、長い襟足の毛先までも、非の打ちどころがない。
極めつけは目だ。こんなにも凛々しく、全身が覇気に満ちているのに、桜色の光彩はたおやかで花のように甘い。
「良ーーーっ」
『なあ、早く行こうって』
「死ぬ……顔が良過ぎる……しんどい」
『見えないってわかってても、いっしょにいるの恥ずかしいんだけど』
「待って、もうちょっと。はーーーー……好き」
『……婚約取り消したんだろ』
「うん……」
柱についた手をぎゅっと握る。自分から言い出したことだけど、未練がないわけではなかった。いっしょに過ごした多くはない時間を思うと切ない。
もう手を伸ばせば届く距離は、許されないのだ。
それでもひと目見ただけで弾む鼓動が、初のように火照る肌が、わけもなく泣きそうになる痛みが、教えてくる。
彼になら何度だって恋に落ちられると。
『本当に、好きなんだな』
でもだからこそ、関わってはいけない。好きな人には幸せになって欲しい。
「ごめん。もう行こっか」
渡り廊下は二本ある。四葩は顔をうつむけて、空いているほうの廊下を足早に抜けようとした。
「あっ、君待ってくれ! 四葩!」
えっ、と目を起こす。日向が宮仕たちを掻き分けて、こちらに向かってくる。今のは聞き間違いか。後ろに誰かいたのか。戸惑っているうちに、日向に手を掴まれた。
「ちょうどよかった。君に用があったんだ。ちょっと俺の部屋まで来てもらえないか?」
着物越しに伝わる体温に、四葩の熱はぶわりと上がった。婚約者だった時もこんな風に触れ合ったことはない。いつも人の目があったし、なにより四葩が逢瀬をないがしろにしていた。
ドクドクと暴れる心臓に気を取られていると、桜花のように甘い瞳がグッと近づく。
「すまない。助けて欲しい」
耳元でささやかれる。直後、四葩は視線を感じた。目だけを向けると、宮仕たちがにらんでいた。その眼光は親の
四葩はすぐに察した。彼女たちは婚約者のいなくなった日向を狙っているのだ。正室は奥宮から選ばれると決まっているが、側室はその限りではない。宮仕でも機会はある。
そんな女性たちに粘着され、日向は動けなくなっていたのだ。
「あ……そうでした!
四葩はわざと声を大きくし、葵宮の名前を出した。葵宮は日向の父親で、守人の長を務めている。そんな大物の名前を出されれば、宮仕は身を引くしかない。
案の定、四葩と日向は誰に引き止められることもなく、すんなりと東宮まで戻ることができた。
「ありがとう、助かった。次は兵法の手習いがあるのに、宮仕たちがなかなか放してくれなくて、困っていたんだ」
「いえ。これくらいお安いご用でございます」
「君の機転には驚いた。まさか父上の名前を出すとは。次は俺も使わせてもらおうかな」
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