笑顔の仮面

江蓮蒼月

笑顔の仮面

 大切な人が亡くなるとき、なぜ私たちは笑顔を求められるんだろうか。


 私が小学校に入学した年あたりのことだ。六歳年上の兄に病気が見つかった。中学校はたった一年も通わずに、兄は病院で生活をすることになった。兄は泣き言の一つも言わずに、いつもただ「ごめん」とだけ言った。何の理解もない私は、その度に「いいよ」と返していた。何も言わない家族の中で、私だけが兄を許すことができる唯一の存在で誇らしかった。同時に、兄を許さないみんなのことは子ども心に冷たいと思った。こんなに謝ってるのに、どうして? 病院で過ごすなんて辛いことしてるのに、どうしてみんな優しくないの? ずっと、そう思っていた。

 兄の言葉の意味に気が付いたのは、それから六年後のこと。当時の兄の歳に追いついた頃だ。兄は、悪いことは何もしていないのに謝っていた。兄は悪くないのに、それなのに兄は極悪人だった。兄は悪くないのに、一番やってはいけないことをした。だから謝っていたのだ。謝っても意味はないと、私以外の全員が知りながら。

 兄は、親より先に亡くなったのだ。亡くなることがわかっていた。……余命宣告をされていたことを、当時の私は知らなかった。親より先にこの世を去るというのは、最大の親不孝だ。どんな理由でも、親を置いて逝くことほど親不孝なことはない。兄はそれでも、生きることができなかった。病気が進行して命を失った。

 兄は亡くなるとき、こう言った。

「笑って見送ってね。……今まで、ありがとう」

 兄の唇はその言葉を紡いだ後に、動かなくなった。胸が上下する動きが失われて、ゆっくりと冷たくなっていく。兄の全身は強張っていて動かなかった。死後硬直。命が失われてしまった証明。

 母は泣き崩れて兄の名を叫び、父は何も言わずに泣きながら母を抱きしめた。

「お兄ちゃん?」

 何かが起こっていることはわかった。両親が泣き崩れていて、兄は動かない。一見寝ているだけに見えるのに、何かが違うと肌で感じる。

「お兄ちゃんはな、お空に行ったんだ」

 父がそう言っても、私には理解できなかった。だって、だって!

「お兄ちゃん、ここにいるよ?」

 死を理解できていない私の言葉に、両親はそうだね、と頷くのがやっとのようだった。まだ死すらもわかっていない子どもが、自分の兄と永遠の別れを告げなければならないことに、何よりもショックを受けたと後から聞いた。

「ここにいるけど、いないんだ。お兄ちゃんはお星さまになったんだよ」

「お星さま? お空の?」

「そうだよ。お兄ちゃんは、空から見守ってくれてるんだ」

 嗚咽を漏らしながら、両親は私に教えてくれた。

「お兄ちゃん、もういないの?」

 唐突に理解した。死、というものは完全にはわかっていなかったけど、兄がもうここにいないことは何となく感じ取ってしまった。

 私は泣かなかった。寂しいとか、悲しいとか思わなかったわけじゃない。兄が、笑ってって言ったから。だから私は泣かなかった。笑ってみせた。

「お父さん、お母さん、なんで泣いてるの?」

 悲しみに気が立っている母は私を睨んだ。

「自分の息子がいなくなって、悲しいからに決まってるでしょ!」

 冷静な父は母を押さえた。

「母さん、だからといって、我が子に当たっちゃだめだ」

「だって、だって……!」

 母は泣き声を一層大きくした。

「お兄ちゃんがいなくなっちゃったのは寂しいよ。でも、お兄ちゃんが笑ってって言ったんだから、泣くのはおかしい」

 両親はハッとしたように顔を見合わせた。驚きで涙は止まっていた。二人は頷いて笑ってくれた。無理やり作った不格好な笑顔だったけど、泣いてるよりはずっといい。兄との約束を守れているから。

 翌日は通夜だった。久しぶりに親戚に会った。その日は両親はバタバタしていたし、周りの大人たちも忙しそうだったから、子どもの私は暇だったと思う。正直、あまり覚えてない。覚えているのはその翌日、葬式のことだ。

 念仏を唱える単調な眠たくなる声。うつらうつらし始めた頃、ようやく念仏は終わった。私にとって衝撃だったのはその後。火葬だ。兄が入った木の箱が、熱い空間に入れられた。

「お兄ちゃん、熱くないの!? 大丈夫なの!?」

 みんな大丈夫だって言ってたけど、次に兄の姿を見たとき、私はその変貌ぶりに悲鳴を上げた。兄の原型は失くなっていて、白い骨が独特の匂いを放って存在していた。そこからの記憶はない。


 それを思い出したのは、今日、祖父の通夜でのことだ。私にとって二回目の、身近な人が亡くなる体験。そして、死を知ってから初めての体験だ。

 六年も前のことを思い出したきっかけは、通夜や葬式ではなくて、祖父の最期の言葉だった。

「笑って見送ってくれ」

 兄と、同じことを言って亡くなった……らしいから。らしいというのは、私が祖父の死に目に立ち会えなかったから。とある病気の感染拡大防止とやらで会うことを許されなかった。祖父の娘である母だけは面会を許され、その言葉を聞いたという。せめて、最期くらいは会いたかった。

 あのときは純粋に、約束だったから笑っていた。死というものを理解できていなかったから笑えてた。だけど、今は違う。わかってるから、笑えない。最後の願いを叶えたいのに、涙が溢れて笑えない。

「おじいちゃん……っ」

 突然だった。少し前まで元気だったのに、急に倒れて、救急車で病院に運ばれた。心臓が悪かったらしく、余命宣告を受けて、余命すらも全うできずに呆気なく逝ってしまった。

 無性に悔しくて、最後に会えなかった原因を呪って。それでも、祖父が戻ってくることは当然ない。

 ……笑わなきゃ。それが最後の願いなら、遺族はそれに応えなきゃ。涙は止まらない。それでも、私は無理に笑ってみせた。あのときとは違う笑顔を作る。六年前の母や父がしていた、無理やりの笑顔を貼り付ける。だって、私は笑わなきゃ。兄の遺言には従って、祖父の遺言には従わないなんてこと、あったら駄目。

 不謹慎だと思われてもいい。そう思った人たちだって、きっと最期には「笑って」って言うんだろうから。それに、私だっていつか同じことを言うだろう。だから私は、笑って見送る。仮面のような不自然な笑顔の下が泣いていることは、見送る相手には絶対に秘密だ。


 だって、最後に見るのは笑った顔がいいじゃない?

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