第6話 過去に



「おーい、琴也?」


「―――」


「おいってば!」


どうやら、ボーっとしてたらしい。

一限の数学を受けていたはずなのに、気づいたら終わっていた。

次は体育で移動教室だ。更衣室で着替えないといけないのだが、いつまで経っても俺が動かなかったので、心配した大聖と翼が呼びに来てくれたことで今に至る。


「ご、ごめん。考え事してた」


先週、絵麻の口から放たれた言葉が頭を離れなかった。

あの日と同じように、なんの前触れもなく。

まるでいつもと何も変わらないようなそんな雰囲気を醸し出して。

とんでもないものを残していった。

あの後、むくりと起き上がり去り際に「すぐに返事はしなくていいですよ」と言ってひとり部屋を出て行ったきり、彼女からあの話をしてくることはなかった。

いっしょにテレビを見るとき、ゲームをするとき、家族団欒のとき、ごはんの時。

機会は無限にあると言ってもいいのに、絵麻は一度もその話題に触れることがなかった。まるで自分が言ったことを忘れているんじゃないかと思うほどに。

普通はこんなことがあれば多少なりと気まずさなどがあるはずなのだが、俺たちふたりの間が気まずい雰囲気になるとかは特になく絵麻もいつもと変わらぬ様子で接してきた。

正直言って、アイツの考えていることが分からない。

休日は色々とやることがあったのだがそのことで頭がいっぱいになってなにも手を付けられなかった。

つまるところ、俺は囚われているのだ。


「大丈夫かい?」


「うん、問題ない。急ごう、遅刻する」


心配そうに尋ねてくる翼に笑顔で反応しながら、机の横に掛けてあった体操着が入っている袋を掴み、立ち上がる。


「そういえば、体力測定やるとか言ってたなぁ」


「マジかよ!わかってれば、もっと準備してきたのに」


三人小走りで更衣室に向かう。

途中、前の時間体育だった一年生の集団を目撃した。


「お、あれが噂に聞く『孤高の天使』かぁ」


大聖の目線の先には、絵麻とその周りを囲むように女子たちがいた。


「孤高の天使?」


聞いたことのない愛称だった。


「ほら、入学式の時にスピーチしてただろ?」


スピーチというと絵麻のことだろうか。

元々美人だし、今の絵麻は性格も柔らかくなったから人気になるとは思ってたけど、どうやら俺の予想をはるかに上回っていたようだ。


「入試で圧倒的な力を見せて他者を寄せ付けなかったのと、誰に対しても変わらない態度で接する飾らない性格で「孤高の天使」だってよ。なんか、中学の頃からこう言われたみたいだな」


「ふーん、そうなんだ」


俺が知っていたのは「孤高の氷姫」。俺が卒業してからグレードアップでも果たしたのだろうか。


「それにどうやら、結構な人から告白されてるけどそれをすべて断っているらしいよ」


「マジかよ……すげぇなぁ」


大聖が驚愕していた。


「うん、生徒会にそんな噂がまわってきたからね」


「へぇ、そうなんだ」


他人の色恋沙汰に疎い翼の耳まで入るということは余程のことなんだろう。

やっぱり、モテるよな。

至極当然のことなのに、絵麻との距離感が近かったためこれまではあまり実感が湧かなかったんだ。

昔の絵麻は確かに嫌われていたし、柔らかくなってからはただの生意気な後輩というイメージが強い。中学の頃は何故かあまり告白されているところを見てこなかったというのもあるのだろう。


「ほら、周りの男子もみんな見てるぜ?」


大聖が言ったとおりに、すれ違う人全員が絵麻に囚われている。

どうやら、本当のことだったようだ。

絵麻を取り囲んだ一年生の集団が俺たちとすれ違う時、


「あ!せんぱぁ~い!」


と絵麻がニコニコしながら話しかけてきた。

おい、ウソだろ?

学校では気を使って遠慮するとか知らないのか!?

事実婚とはいえ、戸籍上では赤の他人。

義理の兄妹だと言って校内を混乱させるのもマズいと思って内緒にしておこうと決めておいたはずなのに人がいたとしてもその積極性は変わらなかった。


「え?あの先輩、絵麻ちゃんと知り合いなの?」


「たしか、風紀委員の人だったよな?」


「先輩ってことは同じ中学とかか??」


憶測が人を呼び、一気に注目の的になる。


「お、おう……どうした?藤森……」


「もぉ、どうして名字呼びなんですか!?いつもみたいに普通に呼んでくださいよ!」


「え、絵麻……どうしたんだ……?」


「うんうん……それでこそ、せんぱいですよ~!」


絵麻は満足そうに頷いていたが、周りは更にざわざわし始める。


「え?絵麻ちゃんのこと下の名前で呼んでる……」


「藤森から名前呼びを強要されるとか前世でどれくらいの得を積んだんだ?」


「でも、絵麻ちゃん……誰でも好きに呼んでいいって言ってたよ?」


「も、もしかして俺もいけるのか?」


外野がかなり騒がしくなっているが、そんなことお構いなしというような態度で俺に歩み寄ってきた。


「どうですか~?こんなに注目されちゃってますけど??」


いたずらっ子のように茶目っ気たっぷりの笑顔を向ける。


「いったい何がしたいんだ??」


何のためにこんなところで俺を巻き込んだのか。

いま、一番ホットな人間だということは自分が一番理解しているだろうに。


「あ~、別にこれと言った理由はありませんよ?ただ、せんぱいが居たから話しかけただけですし」


「それだけ?」


「はい、それだけです。注目されてあたふたしてるせんぱいを見れるとちょっとだけ期待してましたが……はぁ……期待外れでした」


「なんで、ガッカリされなきゃいけないんだ……」


「でも、せんぱいの存在感を上げることはできたので今日のところは満足です。後は頑張ってください~」


「あとは……ってどういう――」


「あ、もうすぐ、次の授業始まっちゃうので行きますね~?また今度です~」


そう言って女子たちとおしゃべりしながら自教室に戻っていく絵麻。


俺はそこに取り残されて、周囲の男子からの強烈な視線が突き刺さっていた。

この時の俺は居た堪れなさが故に絵麻から告白され悩んでいたことなど頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。



少し時を遡る。

藤森家と正式に同居することになった日。

つまり、絵麻から告白を受けた日の深夜。


いつもと同じように大人しくベッドで眠りについていたのだが、どういうわけかその日は、寝苦しく目を覚ました。

意識を覚醒させると、腕がじんじんと痛む。

どうやら、もう筋肉痛がきてしまったようだ。

スマホを点けると画面は午前3時を指している。

中途半端な時間に目を覚ましてしまったらしい。


これが4時とかだったら二度寝をせずに起きていただろうが、3時はいささか起きるのには早すぎる。

しかし、変に目が冴えてしまいこのままでは眠れそうにない。

どうしようかと悩んでいると喉が渇いていることに気が付いた。

取り敢えず、水でも飲みに行くか。

痛みに耐えながら起き上がり部屋を出た。深夜ということもあり家族は寝静まっているようでガチャンと扉を閉める音だけが二階の廊下に響き渡る。

真っ暗ななか、夜目を頼りに階段を降りキッチンに向かっていたが、リビングに薄い明りがついていることに気が付いた。

こんな時間にまだ起きている人がいるのか?

それともただ単に消し忘れただけなのか。

水を取りに行くついでにリビングによるとそこには義母さんがいた。


「あれっ?琴也くん?」


薄暗いなか、ひとりでワインを嗜んでいるようだった。


「義母さん、まだ起きてたんですね」


「うん、わたしは孝志さんと違って明日お休みだから。琴也くんは?」


「筋肉痛がきちゃって、目が覚めちゃったのでお水でも飲もうかと」


「あ~、琴也くんもう筋肉痛きちゃったんだ」


「義母さんは大丈夫なんですか?」


「うん。わたしは今のところは大丈夫みたい。でも、多分明日あたりにくるかな」


義母さんは「若いっていいわね。私くらいの年齢になると筋肉痛にも時差があるのよ」と言いながら豪快にグイッと飲み干す。

父さんも疲れた様子ではあったが痛みはまだないと言っていたので、義母さんの言っていることは正しいのかもしれない。


「そういえば、義母さんってお酒飲むんですね」


「ああ、そっか。孝志さんはあんまり飲まないもんね」


父さんは酒もたばこもしない人だったので目の前の机上に空の瓶が並べられているのはとても新鮮だ。


「義母さんってもしかして酒豪だったりします?」


「う~ん、私は違うって言ってるんだけど、孝志さんは苦笑いで「酒豪だよ」って言ってたかな」


「俺も同意見です」


ワインは確か他の酒と比較するとアルコール度数が高かった覚えがある。

それを二、三本平気な顔をして飲む人を酒豪じゃないと言って何になろうか。


「まあまあ、そんなことはどうでもいいの。それよりも、もし眠くないなら、ちょっとだけ話さない?」


「いいですよ」


幸い、眠気は全くと言っていいほど来ていない。

仮に朝方眠くなったとしても少しだけ昼寝をすればいい。

そんなに深く考えずに義母さんの向かいの席に座った。


「こうやって、ゆっくり話すのはあの日以来ね」


「そうですね。お互い忙しかったですし」


「そうね。引っ越しとか色々あったものね」


俺たちの荷解きの時も大変だった。正直言って思い出したくもない。


「改めてになっちゃうけど、ありがとね。わたしたちのこと快く受け入れてくれて」


「いやいや、こちらこそ。父さんと仲良くしてくれてありがとうございます。父さんはもう恋愛なんかしないと思ってたから、聞いたときは正直驚きましたけど、嬉しかったんです」


「確か、お母様が亡くなられて……」


「はい、父さんは口にこそしませんでしたが、ショックはかなり大きかったと思います。その後、忘れたかったのかほとんどの時間を俺と仕事に捧げてきましたから」


「わたしも孝志さんから奥様の話はいつも聞いてたから、心境は察せられるわ」


どうやら、同僚時代に周りに言いふらしてたりしてたらしい。

愛妻家らしいと言ってしまえば、それまでなんだろけど。


「父さんなら、必ず義母さんのことを幸せにしてくれます。俺が保証します。だから、ふたりでいつまでも仲良くしてください」


「ふふ、二人じゃなくて四人ね。琴也くんも絵麻も一緒よ」


「そうですね、俺も絵麻もですね」


「そうよ。絵麻も小さい頃、つらい事がたくさんあったから。今度こそね」


「辛い事ですか?」


「琴也くんには言ったことなかったと思うけど、わたしも旦那に先立たれてるの。交通事故だった」


「っ……」


「そして再婚したはいいけど、ちょっとDV気味な人でね。結婚する前もしてから少しの間はちゃんとしてたんだけど、うまく出世できなくなって……それで」


おそらく、昔の絵麻が人間不信だったのはきっとこれが理由だ。


「離婚した直後の絵麻は心身ともに弱っててもうダメかと思った。だからね、琴也くんにはとっても感謝しているの」


「俺にですか?」


「絵麻を変えてくれたのは、琴也くんなんでしょ?中学の頃の絵麻は家では必ずと言っていいほどあなたのことを話してた。だから、こうやって奇跡的な良縁に恵まれてよかったと思ってる」


「俺はそんな大したことはやってませんよ。きっかけを作ったのは俺かもしれませんけど変わったのは絵麻自身です。絵麻が強かったからですよ」


「そうかもしれない。けど、私は感謝を伝えたい。ありがとう、琴也くん。これから、家族として、そして義理とはいえとして絵麻のことをよろしくね」


「任せてください」



きっと、この言葉がなかったら。

俺は多分、絵麻をまた同じようにそのまま振っていた。

昔から知っており、好ましいと思っていた存在。それは、間違いない。

だが、それはあくまで後輩としてであり、恋愛対象ではない。


でも、振るということはまた絵麻を同じように傷づけるということ。

二度同じ相手に言われるのは、一回目と比にならない。

義兄として大切にすると誓ったはずなのに。

いいのだろうか。絵麻がショックを受けてまた昔のようになってしまわないのだろうか。


家族として、義兄として。この家庭を。せっかく父さんがつかみ取った家庭を。

簡単に壊すことはできない。

無意識のうちに俺はそう思っていた。


だから、こんなにも葛藤し、頭を悩ませているんだ。







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