第九章 贖罪
第42話 贖罪の始まり
私の心は破裂した――
断罪の日から数日後、私が暮らしていた家へ母に連れて行かれ、自分の荷物をまとめた。私たち家族の幸せが詰まっていた家。私はそれを
そんな私に、元夫の真一が口にした別れの言葉は――
「……君を、幸せに、するという、約束が、守れず……申し訳なかった」
――謝罪の言葉だった。その言葉の裏に私ははっきりと感じた。
『君を心から愛していた』
うずくまって身体を震わせる真一と、それに寄り添う美咲の姿を見た時、私の心は破裂した。自分がどれだけ酷いことを真一と美咲にしたのか、その罪の重さがようやく分かったのだ。
(不倫は……家族に振るう苛烈な暴力だ)
泣き叫びながら、ただひたすら謝った。私にはそれしかできない。しかし、いくら泣き叫んでも私の罪は消えない。覆水盆に返らず。何もかも手遅れなのだ。
母に引きづられるように車に乗せられ、自宅だった場所を離れる。母の車の中でも私は泣き叫んでいた。自分の愚かさに悔やみながら。
実家に戻った後、母は怒り狂った。ずっと我慢していたのであろう。あんな母の姿は生まれて初めて見る。厳しい言葉で叱責されながら、私は何度も何度も殴られた。でも、同時に母は泣いていた。私は母親の心をも深く傷付けていたのだ。
母は私に厚めの封筒を投げつけた。
「五十万入ってる。これが親としてできる最後のこと。一ヶ月以内に仕事と住む所を見つけて、この家から出ていきなさい。あなたとは親子の縁を切る」
母の涙声の絶縁宣言に、私は何も言えなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日から職探しが始まった。
きちんとした会社に就職したいと考え、職業安定所に行ってみたが、学歴だけはあるものの、大した職歴もなく即戦力になり得ない私に、高待遇な職場が無いのは当たり前だった。
一瞬、高収入という言葉につられて、熟女風俗の店で働こうと考えたこともあった。きっと風俗で働けば、身体や心の負担は大きくても、慰謝料や養育費の支払いも楽だろうし、早期完済だって可能だろう。でも、それでは罪滅ぼしにはならない気がした。この罪悪感は、さっさとお金を払えば解消されるものではないと思う。普通の仕事を毎日一生懸命こなすこと。それで得たお金を慰謝料や美咲の養育費として毎月きちんと支払うこと。いつか真一や美咲と再会した時に、きちんと顔を合わせられるように生きること。それがこれから私の進むべき道だと、そう思った。
結局、工員などの働き口はなく、普通の会社に就職するよりも、パートやアルバイトを夜勤メインで毎日働いた方が収入が良さそうだったので、平日はお弁当などを作る食品工場の作業員として夜勤を、週末はオフィスビルの清掃員として夜勤を勤めることになった。将来きちんと就職するための実績作りの一貫にもしたいし、身体は辛いだろうが、とにかくやるしかない。
これで月に手取りで二十万円前後は稼げそうだったので、真一には養育費込みで毎月十二万円ずつ支払っていく予定だ。
残り八万円。これで家賃と生活費を賄わなければいけない。光熱費や食費は切り詰めるとして、スマートフォンは必需品なので通信費は必須。化粧品は最低限だけにして、その他の雑費を考えると……できれば四万円前後の家賃の物件を探さなければいけない。
不動産屋で相談してみたのだが、この近辺での家賃相場は、駅近で新しめのワンルームマンションが八万円前後。結構田舎のはずなのだが、それなりの家賃設定だ。二、三駅先に行くと相場が下がるらしく、古めのアパートであれば条件に合う物件があるかもしれないと、別の不動産屋を紹介してくれた。
その別の不動産屋に紹介してもらった物件が、築四十年超の木造アパートの一階。六畳の和室一間、キッチンと水洗トイレ付きで、本当に小さいがシャワーブースも付いている。家賃は四万円。即入居可とのことだったので、契約することにした。
家で母にすべて報告した。ここまでで二週間以上経過していたが、何とか一ヶ月以内に出ていけそうだ。母からは「分かった」と一言だけ貰った。
実家を出ていく日、私は最後に母へ土下座した。
「馬鹿なことをしてしまい、申し訳ございませんでした。今まで本当にありがとうございました」
母は何も言わず、ただ私を見ていた。
玄関に向かい、荷物が詰まった旅行用バッグを片手に玄関戸を開ける。この戸の向こう側に出たら、私はお母さんの娘では無くなる。涙が溢れそうになったが、我慢した。
玄関を出て、私は最後にもう一度、見送ってくれた母へ深く深く頭を下げた。
玄関戸を締める私。これで親子の縁は、切れた。
玄関戸の向こうから絶叫するような泣き声が聞こえる。母が泣き叫んでいた。どんなに馬鹿なことをしたどうしようもない娘であっても、自分のお腹を痛めて産んだ娘であり、すべてを捨てて愛を注ぎ、人生の多くの時間を一緒に過ごしてきたのだ。そんな大恩ある母を深く傷付け、親として一番辛い思いをさせているのは私だ。
我慢していた涙が零れる。それでも私は実家に背を向けて歩き始めた。
私の耳には、母の泣き叫ぶ声が焼き付き、いつまでも聞こえていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
古びたアパートの一室。築四十年以上と、築年数が随分と経過している物件だが、部屋は清潔で綺麗だ。
何も無い部屋の畳の上にカバンに下ろし、私はへたりと座り込んだ。私の心には後悔しかない。夫を、娘を、母を裏切り、深く傷付けた結果がこれだ。本来であれば、あの幸せ溢れる家に住み、夫と娘の笑顔に囲まれて暮らしていたはずなのに、気付けばひとりぼっち。
「私は……一体何をしてるの……?」
思わず口に出た呟き。窓から差す陽光が頬に残った涙の後を輝かせる。
一年半に渡る不倫。残ったのは罪の意識と大きな金額の債務だけ。この空っぽの部屋は私そのもの。私はすべてを失ったのだ。
罪を償うための孤独な贖罪の人生が始まった――
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<次回予告>
第43話 叶わぬ夢
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