第16話 獣の交わり

 あれから涼子とは微妙な壁を感じるようになった。涼子が作っているのか、俺が作っているのか、それともお互いに作っているのか。少なくとも、俺自身は涼子に対して態度や言動は変えていないつもりだ。でも、昔から涼子はさといから、俺の心境の変化に気がついているのかも知れない。

 涼子と顔を合わせたくない俺は、とにかく仕事に精を出した。いつもの事務仕事はもちろん、積極的にセールを進めたり、店調理の惣菜の新メニューの企画を立てたり、閉店後も遅くまで事務所で働いていた。


 コン コン


「はい、どうぞ」


 ガチャリ


「あれ? 店長まだいたんですか?」


 事務所に顔を出したのは、パートの高月こうづきさんだった。少し外ハネの黒髪ボブ。仕事で頼りになるちょっとふくよかなお姉さん。四十代半ばくらいだったと思うけど、年齢を感じさせない素敵な笑顔が彼女の魅力だ。


「次のセールの企画とか、新しい惣菜を考えていたんです」


 本当は家に帰りたくないだけなのだが、必死で笑顔を作ってそう答える。でも、高月さんは事務机に座っている俺に近付いてきて、顔を覗き込むように身体をかがめた。


「店長、大丈夫? 凄く辛そうだよ?」


 高月さんの気遣いの言葉が心に沁み、俺は歯を食いしばった。でも、我慢できなかった。情けないくらいに瞳から涙が零れた。


「店長、辛い時は泣いたっていいんだからね」


 そう言って、俺の頭を自分の胸にうずめさせる高月さん。柔らかな胸と優しい匂いに心がゆるんでいく。気がつくと、俺は高月さんの胸の中で大声を上げて泣いていた。


 ひとしきり泣いた後、俺の目の前でパイプ椅子に座っている高月さんに、自分の心の内をすべてぶちまけた。子どもの頃からずっと我慢して生きてきたこと。政略結婚で幼馴染みと結婚したこと。それでも幸せを形作りたくて自分だけの家族を構築したかったこと。妻の病気でそれが永遠に叶わなくなったこと。妻との間に壁を感じるようになったこと。

 情けない。あまりにも情けない愚図な男の愚痴。それは分かっていても、止まらなかった。きっと高月さんも呆れているだろう――


「奥さん、甘えてるね」


 ――高月さんの言葉に驚く。


「もちろん、病気や手術は辛かったと思う。女性として大きな決断を下さざる得なかったわけだしね。でもさ、店長がずっと心に抱いていた『幸せの形』を奥さんは知ってたわけだよね。だったら、それを壊したのは奥さんなんだから、店長のことをもっと気遣ってもいいんじゃないのかな?」


 俺の手に自分の手を重ねる高月さん。


「そんなな奥さんがいたら、家には帰りたくないよね。店長はストレスが溜まるばかりだろうし…………ねぇ、店長……」


 高月さんは、俺の手に重ねていた手を俺の太ももにずらし、そっとさすった。


「……私で良ければ、ストレス発散してよ。私、店長なら全然大丈夫だから」

「えっ! い、いや、高月さん、旦那さんが……」


 寂しそうに微笑む高月さん。


「もう十年以上レスだもの。『オマエみたいなオバサン、女として見れない』だってさ。だから、バレなきゃ大丈夫。私には何したっていいよ。どんなことでも全部受け止めてあげる」


 その後は、あまり細かいことを覚えていない。高月さんを長机の上に押し倒し、ただがむしゃらに彼女を抱いた。どんなに乱暴に扱っても、高月さんは嫌な顔ひとつしなかった。心に渦巻いていた怒りや憎しみを何度も吐き出す俺を優しく抱き締めて、微笑みを浮かべながら頭を撫でてくれた高月さん。彼女の言葉通り、こんな情けない男のすべてを受け止めてくれたのだ。


 すべてが終わり、申し訳無さそうな俺に、身支度を整えた高月さんは優しく微笑む。


「すっきりした? ごめんね、こんなオバちゃんが相手で」

「そ、そんなこと……」

「私で良ければ、いつでもさせてあげるから。ゴムだけ用意しておいてね」

「高月さん……」


 事務室を出ていこうと扉のノブに手を掛けた高月さんは、その手を離してもう一度俺のところに戻り、そっと口づけしてくれた。


「店長、男らしくてカッコ良かったよ。自信持って」


 高月さんは笑顔でそう呟き、事務室を出ていった。淫らな匂いが立ち込める事務室でひとり佇む俺。事務机に戻り、ノートパソコンのスリープを解く。

 俺は、高月さんのシフトを確認した。


 それからしばらくの間、俺と高月さんの関係は続く。彼女がシフトに入った日は、ほぼ毎回事務室で行為に及んでいた。閉店後のスーパーの事務室には、タガが外れたのか、高月さんの獣のような嬌声が響き渡り、俺もそれに応えるように獣となって彼女を抱いた。家には帰っていたが、帰宅が夜遅く、家を出るのも朝早かったため、涼子と顔を合わせることはあまりなかった。


 そんな高月さんとの関係が数ヶ月続いた後、彼女は店を辞めることになった。旦那にバレたのかと一瞬焦ったが、そういう理由ではなく、旦那が急な転勤になったらしい。

 最後に彼女から言われた。


「店長、ごめんね。店長をセフレみたいにしてしまって。実際、長い間レスだったから寂しかったんだ。正直言うと、初めてのあの時『チャンス』だって思って、『奥さん、甘えてるね』なんて店長をあおったんだよ」


 そうか、俺は高月さんに利用されていたんだな。でも、俺も高月さんをいいように抱いていたわけだし、謝ることなんてない。


「頬にキスするだけでも、抱き締めてくれるだけでもいい。『愛してる』『好きだよ』っていう言葉だけだっていい。いくつになっても誰かに愛されているっていう実感がほしい女性って多いんじゃないかな。中には私みたいに性欲を抱え込み続けて、ずっと我慢して、ずっと苦しんでいる女だっている。そういう妻の気持ちに寄り添おうとせず、悩み苦しむ心をさらに傷付けてくる夫がすごく多いと思う…………ねぇ、店長。この店には私と同じ『主婦』という立場のパートが何人いる? そして、この店の王様は店長、あなたなの。私が何を言いたいか、分かったかな?」


 高月さんの言葉に鼓動が激しくなる。

 そして――


「私は、私を愛してくれない夫のところに戻ります。それじゃあ、店長。さようなら」


 ――高月さんの声は震え、その目には涙が浮かんでいた。

 愛無き生活という現実が待ち受ける地獄へ戻ろうと、高月さんはゆっくりと事務室を出ていった。


 こうして高月さんとの関係は終わりを告げる。

 でも、俺の心には新しい『幸せの形』が薄っすらと浮かび始めていた。






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<次回予告>


 第17話 王の覚醒



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