第7話 性の誘惑

 夜、真一の家からも程近い十階建てで白い外装、ファミリータイプのマンション。七階角部屋の一室の窓から明かりが漏れている。


「美咲ちゃんは?」

「今、お風呂入ってる」

「そっか」


 居間でロングソファに座っていた愛香と、真一と話をしてきて帰宅した父親が、お互いに心配そうな表情で言葉を交わした。

 母親である亜希子の浮気現場を目撃してしまった美咲は、自宅へ帰ることを強く拒否。愛香のマンションに来ていた。

 愛香の父親は、事情が事情だけに美咲を一旦預かり、その後真一を呼び出して事情を説明したのだ。


「私、『一緒に入ろうよ』って言ったんだけど……『ひとりで大丈夫』って……」

「愛香、ありがとな」

「でもね、さっき様子を見に浴室の前まで行ったんだけど……」


 愛香は辛そうな表情を浮かべ、声を震わせる。


「美咲……お風呂の中で泣いてて……時々……おえぇって……まだ吐き戻してるみたいで……吐くものなんて、もう何も無いはずなのに……ずっと……泣きながら、おえぇって……もう可哀そうで……」

「そうか……」


 ローテーブルを挟んで愛香の正面のソファに腰掛けた父親は、大きなため息をひとつついた。


「ねぇ、パパ……」

「ん?」

「パパは……浮気したこと、ある?」

「あるわけないだろ」

「変な言い方だけど……なんで浮気したことないの?」

「そりゃ、ママのことが好きだし、愛しているからだ」

「ママ、死んじゃったのに?」

「あぁ、今もママを愛してるよ」


 少し考える素振りを見せる愛香。


「じゃあ……美咲のママは、美咲のパパが嫌いになったのかな……?」

「どうなんだろうな。パパには分からないよ」

「浮気って……家族への裏切りだよね?」

「そうだな」

「家族を裏切ってまで、他のひととセックスしたいものなの?」


 愛香の言葉に驚く父親。


「ごめんね、パパ。でも……でも、真面目に聞いたの」

「……じゃあ、パパも真面目に答えなきゃな」


 父親は愛香と目をしっかりと合わせた。


「男女や夫婦にとって、セックスはとても大切なことだとパパは思う。お互いの愛情を確かめ合う行為だと思うし、愛の結晶である子どもを作る行為でもある。逆に、不仲や離婚の理由になったりもするからな。性欲は人間の大きな欲求のひとつだから、それは自然なことなのかもしれない」

「うん……」

「だからといって、家族を裏切ってとか、誰とでもとか……そういう感覚はパパには分からない。ひとには理性があるだろ」

「理性……」

「そうだ。ひとが本能や感情だけで行動していたら、世の中はめちゃくちゃになってしまう」

「美咲のママは、本能や感情だけで……」

「実際のところは分からない。でも、本能や感情のままに、浮気や不倫、セックスという行為に溺れるひとがいることは確かだ」


 ぽろりと涙を零す愛香。


「やっぱり、私分かんないよ……気持ちいいのか、何なのか知らないけど、そんなことのために家族を……娘を裏切るなんて……自分さえ良ければ、他はどうでもいいってことなの? 考えられないよ。だって大人でしょ? 子どもの私だっておかしいって思うことをなぜ……」


 父親はすっと立ち上がり、愛香の隣に腰掛けた。そして、身体を寄せてきた愛香の頭を撫でる。


「悲しいけどな、それも人間なんだ。色々な人間、色々な大人がいる。パパも、美咲ちゃんのママもそのひとりだ。どんな大人になるかは愛香自身にかかっている。これから先、たくさんの性の誘惑が愛香を待ち受けていると思う。性についてきちんと学び、どう行動するのか、それによってどんな結果が待っているのか、女性はどんなリスクを負わなければいけないのか、愛香自身でよく考えるんだ。いいね」

「パパ、まだ中一の私が突然セックスなんて言ってごめんなさい。でも、怒ったりしないで、真剣に答えてくれてありがとう」

「いや、愛香と性の話ができて良かったよ。パパは約束する。絶対に愛香のことを馬鹿にしたり、怒ったりしない。性のこと、セックスのこと、デリケートな話だから恥ずかしいと思うけど、パパに何でも聞いてくれ」

「うん、パパありがとう!」


 父親の微笑みに、愛香も満面の笑みを浮かべる。


「私、美咲を支えられるように頑張るね」

「全部愛香だけで背負わないようにな。パパを頼ってくれ」

「うん、分かった! あっ、美咲の着替えを用意しなきゃ!」


 着替えの用意を忘れていたのだろう。愛香は慌てて自分の部屋へ戻っていった。そのようすを微笑みながら見つめる父親。

 しかし、その表情が曇っていく。


『家族を裏切ってまで、他のひととセックスしたいものなの?』


『自分さえ良ければ、他はどうでもいいってことなの?』


『子どもの私だっておかしいって思うことをなぜ……』


 中学一年生の娘の言葉が心に重くのしかかっていた。それらは愛香の素直な思いなのだろう。そんな愛香に親として、ひとりの大人として「そんなことはない」「何かの間違いだ」とはっきり言い切りたいのに、そんな言葉は美咲の母親の姿を見てしまっている以上、何の意味も持たない。


「くそっ……情けない……なんて情けないんだ、大人ってやつは……」


 愛香の父親は、悔しさを表情ににじませながら、自分の膝の上で拳をぎゅっと握った。






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<次回予告>


 第8話 壊れゆく心



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