かささぎの朝

nishimori-y

第1話

 東西挑戦者決定戦が終わり、二週間が過ぎた。昼休み、弁当を食べ終わった後、俺はすぐにかるた部の部室へ行くようにしている。


 東西戦での相手は強かった。W大学三年生の三島さんという人は俺と同じ聴覚の良さを武器としていて、一字決まり、二字決まりにもめっぽう強かった。感じの良さに定評のある俺と同じ戦法ということで、つまりは俺の得意札を封じられるということでもある。接戦に次ぐ接戦で最後は運命戦にまでもつれ込んだが、俺の元にあった「あきのたの」が詠まれて攻め切ることができた。


 秋の田の かりほの庵のとまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ


「あきのたの」は俺の得意札だ。「あきのたの」を詠った天智天皇は百人一首の最初の歌人、平安時代の天皇の祖であり、かるたの聖地、近江神宮の主祭神として祀られている。誰にも譲れないし、誰にも渡さないし、誰にも送らないし、誰にも取らせるわけにはいかないもの。そういう強い思いこそが強い糸を繋ぎ、またはその執着が大いなる弱点にもなったりするわけだが、まあ取り敢えずは勝利をもぎ取ることが出来たのでこの点は良しとしよう。


 新年に行われる名人戦まではすでにひと月を切ってしまったが、それに向けた十分な練習量を確保している実感が全く自分の中にない。大きな原因としては、足羽会での練習が不十分なことにある。名人戦へ向けて一番頼りにしていたはずの両全さんが、練習に来れない、と断りを入れてきたためだ。イベント企画会社に勤める両全さんは、来年春に福井市で開催される「北寄ススムイラスト原画展」の企画準備に追われているらしく、どうしてもかるたの練習まで手を回すことができないということだった。


 一昨年の西日本予選の決勝で俺に敗れてから一時期はやる気を失っていた両全さんも、ここ最近は調子を上げていたように思う。しかし、仕事となると話は別だ。一昨日の練習では、夜の八時半になってようやく両全さんが足羽会の練習場まで足を運んできてくれた。「少しでも仲間のためになんとかしよう」という両全さんの気遣いには、実に頭が下がる思いがする。帰宅時間ギリギリではあったけれども、両全さんの好意に甘えてもうひと試合だけ練習をすることにした。俺の前で札の暗記をする両全さんの目の下には、恐ろしいくらいの真っ黒な隈が縁どられていた。


 なんでも映画ロケのもてなしの準備もあるとかで、連日深夜まで仕事で拘束されているらしい。「百歌祈祷師」という実写映画の撮影ロケが福井であるとかで、廣田マリアという若手の女優が来るといって、クラスの男子たちが嬉しそうに騒いでいたのを聞いた覚えがある。女優にはそれほど興味はないが、百人一首に関係する映画とあらば気もそぞろだ。一度でもいいから俳優さんたちにお目にかかりたいという好奇心がむくむくと心に沸いてきたのだが、平日ロケのために結局一度も見学することは叶わないようで、それが甚だ残念ではあった。


 両全さんは律儀にも再三俺に謝ってくれた。「こんな大事な時期やのに、ほんとにすまんの」と断りを入れてくれた両全さんに、俺は軽く頭を振った。気遣いだけでもありがたく思わなければ。しかし有明名人との対戦をこれまでに二回ほど経験している両全さんは貴重な人材で、対名人戦へのアドバイスを是非ともご指導願おうと期待していたのだが、その当てが外れてしまったというのはかなりの痛手ではある。


 そういう意味では、「彼女」の存在はかなり有難いともいえるわけだが。


 とにかく俺には名人戦までの時間がない。だから隙間時間を最大限に生かして練習に励むことにした。昼休みにはかるた部の部室でストレッチと素振りを行う。実質的な時間は二十分ほど。その間に手早くジャージに着替え、軽い筋トレを始めた。


 五分ほど軽く体をほぐした後、汗を拭いて素振りを始めようとしたところへ、そろりと扉の開く音がした。

「八重園、やっぱりここだったか」


 見るとクラスメイトの篠原だ。


「練習中に悪いね。ちょっとだけ話いい?」

 昼休みの間に彼がここに来るのは珍しい、というか、今まで一度もなかった。大概彼は図書室に籠っているはずだ。


「なんや、篠原が来るのなんて珍しいの。どうしたんや?」

「ちょっとね、なんとなく八重園と話がしたくなって。少しだけお邪魔させてもらうよ」


 篠原はするりと教室に入って扉を閉めた。何をするわけでもなく、入口の近くで壁にもたれ、ポケットに手を突っ込んでじっとこちらを見つめる。今年の四月に東京から来た転入生で、茶色く染めた髪にくっきりとした二重の瞼。モデルのような優雅な容姿で女子にも人気があるようだが、俺からすれば野郎なんてものに興味はない。

「話なんて、教室でいつでもできるやんか」


「いつでもできないような話だってあるよ――まあそんな顔しないで、こういうのもたまにはいいじゃん」


 怪訝な表情を隠せなかった俺に応えるように、篠原は笑顔を作った。

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