◆第一話:書庫の魔術書
いつだって予習の完璧なハルちゃんから聞かされた説明によると、古い時代には図書館として利用されていたこの大きな書庫には、
「こんなの書庫っていうより、魔窟じゃん。これ全部見てくわけ?」
「ナツは、コツコツやるのは苦手じゃないと思うけど」
「……限度ってもんがあるんやよ」
鶴ヶ谷における図書委員の仕事といえば、本の貸出管理と、図書新聞の編集、そして不人気作業の筆頭である、書庫の蔵書目録作成および整理整頓に分けられる。
春先の新年度の班分けのさなか、蔵書整理班の希望者を募集する段となって、放課後の貴重な時間を、そんな陰鬱で地道な作業に捧げるのはごめんだと誰もが名乗りを躊躇する中、最初に手を上げたのが責任感の強い二年生、
学園が衣替えを迎えた六月の金曜日の放課後。真新しい半袖のポロシャツに身を包んだ俺は、古い紙とインクの香りで充満した書庫の中で途方にくれていた。となりでやる気を見せる陽馬はともかく、予想を上回る本の山を前にして、十五分もたたないうちに俺の心はすでに虚無へと向かっていた。
大量の書物の中には興味をひく書籍が見つかることはあるものの、その内容は専門的すぎて、どうにも息抜きにはなりそうにない。かといって薄暗い書庫での地道な作業は想像以上に退屈だった。仮にも、この狭い空間にいる相手が女の子ならば、密室での共同作業をとおしてほのかなロマンスを期待できたかもしれないのに……悲しいかな、ここは男子校で相手は昔なじみのハルちゃんなのだ。
そうはいっても、その環境を選んだのは自分自身なので文句も言えない。俺は今年、陽馬のあとを追って、この中高一貫の私立男子高校へとやってきた。欲を言えば中学からハルちゃんの後輩になれれば良かったのだけれど、鶴ヶ谷の中学受験に失敗をして共学の公立中学校に三年間通い、その間に猛勉強をして高校受験でなんとかリベンジを果たしたのだった。なぜ、そこまでしてと思われるかもしれないが、背が高く頭も賢く、ついでに顔と性格まで整った陽馬は、俺にとっては頼れる兄と面倒見の良い母親を合わせた、観音菩薩のような存在であり、このよくできた幼馴染の近くにいないと俺が落ち着かないからである。もはや親の顔を刷り込まれたひな鳥のごとく、側にいることそのものが目的化している気がしないでもないけれど、三年ぶりに陽馬の背中に手が届くところまでやってきて、俺はようやく本来いるべき場所に戻れた気がした。それに較べたら、この学校に女子がいないことや、クラスに友だちがいないことなんて、どーということでもないね。
「俺、ハルちゃんさえおってくれたら、この先なんも心配いらんって思う」
流れ作業のように床に積まれた本の背表紙についた古い型式のラベルと、新しい分類表をにらめっこしながら、ふと口をついて出た俺の言葉に陽馬が反応する。
「こっちは心配でしょうがないんだけど。俺はどうしたってナツより先に卒業するんだから、今のうちにクラスに友だちを作っておきなよ」
「ハルちゃんがいなくっても残りの一年間くらい平気やよ。どうせ俺、ハルちゃんと同じ大学に行くんやし」
俺が、そう答えると陽馬は肩をすくめた。
「わざわざ、こんな男子校になんてこなくても良かったのに。中学で仲良くなった友だちや女の子だっていたんだろ?」
「しょうがないじゃん。ハルちゃんと一緒にいるほうが断然楽しいんやもん」
「俺も、ナツが頑張って後輩になってくれたことは、うれしいけどさ。でも心配だよ」
兄のようであり母のようでもあるハルちゃんは、なんだかんだと俺に優しく甘かった。
地味と平凡が制服を着たような俺でも、陽馬のそばにいるときだけは特別な存在になれる。陽馬は俺の指針であり、困ったときは必ず助けてくれる、ヒーローみたいな幼馴染だ。なまじ女の子の目線があれば、陽馬と自分の彼我の差をコンプレックスに思うこともあったかもしれないが、男子校であればそうした厳しい目にさらされることもない。
中学生のとき、クラスに気になる女の子がいた。何度か一緒に下校したり休日に遊びに出かけたりしてみたけれど、その子の求める理想と俺の実像が違いすぎて、告白する前にあっさりと振られてしまった。
「……荻上くんのこと好きなんだけど、なんか思った感じと違ったみたい」
そこのところ、ハルちゃんはそういった見返りや理想像などは一切求めずに、絶妙なアメとムチで俺を正しい場所へと導いてくれる。なんでも出来てしまう年上の幼馴染に頼って甘えて何が悪いというんだろう。恋と友情は数多ある創作の中で語られ続けてきた人類永遠の命題だ。俺だって、女の子とは今でもすっ――ごくつきあってみたいよ。でも、どちらかを諦める必要があるなら、ハルちゃんと一緒に残りの人生を安穏と過ごす日々を、迷わず選ぶね。
要するに、恋にはやがて終わりが来るけど、友情は永遠なんだ。
俺は、積み上がった書籍の山から次の本を手に取り、薄い埃を手で払う。その本は緑革の大きく重たい本で、背表紙にあるべきはずのラベルが付けられていなかった。
「ハルちゃん、あのさぁ、シールの無い本ってどうすればいいかな?」
「寄贈本の中には手つかずで積まれてるものもあるらしいけど。とりあえず表紙をカメラで撮影してから仕分けカゴに入れてもらえる? タイトルと著者さえ写しておけば、他の委員と手分けして分類作業ができるから」
図書委員に所属する者は図書館内での持ち込み端末の利用が許可されていた。これなら確かに、わざわざ書庫内で内容を改めるよりは合理的な方法かもしれない。……けれど。
「それが、表紙に何も書かれてなくて、なんの本かもわからんくて」
「それなら中を開いて奥付を撮影してくれればいいよ」
「オッケー、まかせとき」
ずっしりとした厚みと重みに加えて、かつて見たことのないくらい手間のかかった装丁。著者名どころか題名すら書かれていない完全無記名の深緑色の革表紙は飾り鋲と鉄の留め金で補強されており、その表面は人の手細工によって細かい模様が刻まれている。眺めていると目の錯覚を利用したのか、うねうねと表面のパターンが変化していくように感じられ、俺はいつの間にか惹き込まれていることに気づく。まるでゲームに出てくる魔術書みたいだ。
こういう本、オークションで売ったらいくらの値段がつくんかなあ、なんて思いながら俺はスマートフォンを片手に持ち、空いた指の爪で固い留め金を外して、興奮のままに重たい革表紙を、……めくった。
次の瞬間。窓の無い書庫をびゅうと風が吹き抜け、俺の髪の毛が逆巻いた。人の吐息のような音が俺の耳のすぐそばで聞こえ、やがてささやき声に変化したそれは、聞いたこともない不思議な言語で歌うように魔術的な詠唱をはじめた。その声に合わせて急速に室内が色彩を失い、同時に照明も落ちて周囲が黒色に飲まれていく。
これって、やばいやつなんじゃ……。
俺はここに至り何かを踏み違えてしまったことを悟り背筋が震えた。いつの間にか手にした本は消え失せてしまい、代わりに眼下に円形の波打つ水面が出現する。今や周囲は完全に闇に染まり、水面から淡い光が漏れでることで、かろうじて、ここに空間が存在することが認識できた。
「ハルちゃん、……おる? おったら返事してよ」
喉がひりつき、声が震える。幼馴染からの返事はなかった。
まずい、絶対にまずい。何が起こっているのだろう。恐怖心は増しているのに、なぜだか水面に引き寄せられるように身を乗り出してしまう。絶対に見たくないのに、抗えなかった。俺は目を閉じることすらかなわず、眼前に揺らぐ水源に歩み寄り、そこに顔を寄せた。
俺が水鏡の先で見たものは、反射した自分の顔ではなく、ましてや恐ろしい混沌の怪物でもなく、クラシカルな水色のセーラー服に身を包んだ、ひとりの女の子の姿だった。揺れる水面で顔の造形まではわからないけれど、少なくとも不気味な感じはしない。つい、少しだけ油断したそのとき、境界のあちら側にいる女生徒の指先が水面を超えてこちらに向かって伸びてきた。驚いた俺の手からスマートフォンがこぼれ落ち、とっさに手を伸ばす。……次の瞬間、俺は見えないなにかに手を絡め取られ、強い力であっという間に水面の向こう側へと引きずりこまれてしまう。息ができない。暗い水中で上下の感覚までを失い、容赦なく口から気泡がこぼれ出ていく。錯乱したまま、俺は同時に全身の血が失われていくような感覚を受け、力が入らなくなった。抗えないままに身体から心が引き剥がされていく。気づけば俺は幽体離脱のように、外から自分の命が尽きていく様を眺めていた。
「うわああぁ――っ!」
俺は叫び声をあげながらバランスを崩し、よろめき肩を打ち付け、その場に崩れ落ちる。その反動で数冊の本が、俺の上に落ちてきた。痛みに顔をしかめながら目をあけると、木の書棚が見え、酸素を求めて荒く息を吸い込むと、酸化したインクの香りがした。
……書庫だ。良かった、学校に戻って来れたんだ。
安堵すると急速に身体の力が抜け、めまいとともに世界が暗転していく。誰かの駆け寄る足音が聞こえた。
「ナツ、大丈夫? ねえ、ナツ!」
薄れゆく意識の中で、聞き覚えのない女性の声が俺の名前を呼ぶのを聞いた。
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