君のとなり、それかジ・エンド

然℃ [nendo]

◇プロローグ:遥花と菜摘

 ご近所に住むひとつ年下の女の子。いつから好きだったかと言えば、物心がついた頃にはもう好きだった。一緒にいることが当たり前すぎて、それを恋だと自覚するにはもうしばらくの時間が必要だったけれど。


「ねえ、ナツ。そろそろお昼休みくらいは、クラスのみんなと過ごしたほうがいいよ」

「べつに気にせんし。あたしは、ハルちゃんがいるからこの高校に来たんやもん」


 私がこの幼馴染と、図書館の司書室で昼食を囲むようになって、ひと月が経過していた。机を挟んで眼の前に座る菜摘なつみは、先輩である私の忠告に耳を貸そうともせず、お弁当の卵焼きをお箸で割りながら平然と口へと運んでいる。


 この春、鶴ヶ谷女子つるがやじょしに入学した菜摘は、そろそろ新しいクラスメイトの名前と顔を覚えても良い頃合いだというのに、いまだ目立った友だちがいないようだった。理由ははっきりしている。中高一貫教育をうたうこの女子校に高校から進学するということは、すでに強固に築かれた友人関係の輪の中に、自ら飛び込む勇気を必要とするからだ。菜摘は明るい性格をしているが、知らない人の中へと物怖じなく入っていけるほど社交的ではなく、小さな頃から現在にいたるまでいつも私の後ろをついてまわるような女の子だった。


「私はナツより先に卒業しちゃうから、友だちがいないと、この先しんどくなっちゃうよ」

「ハルちゃんがいなくっても残りの一年間くらい平気やよ。どうせあたし、ハルちゃんと同じ大学に行くんやし」


 それが規定事項であるかのようにうそぶき、笑顔を浮かべる菜摘。困ったものだと思いつつも、私はこの笑顔に弱いのだ。


「わざわざ、女子校なんて狭い世界に来ちゃって。私なんかを追いかけても仕方ないのに」

「しょうがないじゃん。ハルちゃんと一緒にいるほうが楽しいんやもん。クラスの子なんて子供しかおらん」

「そんなの同級生の子たちと仲良くなってみないと分からないでしょ」

「同級生なんてどーでもいいよ。あたしが好きなのは、ハルちゃんだけ。だから他に友だちなんていらんの」


 クラスに馴染めないこの子が、私を逃げ場所にしていることは明らかで、先輩としての私はナツをたしなめる立場にあるというのに、幼馴染としての私が、このふたりきりの昼休みや、同じ図書委員会で過ごす放課後の時間を心待ちにしていることを否定できない。菜摘が私に向けるストレートな好意は容赦なく私の心に流れ込み、すでに容量いっぱいに溢れそうになっていた。


 この気持ちが恋だと気づいたのは、菜摘が鶴ヶ谷の中学受験に失敗をして、はじめて進路が枝分かれしたときからだ。ひとときも離れず後ろを追いかけてきた菜摘が、共学の中学校に入り私の知らない男の子と並んで歩いている姿を見たとき、私は自身の片翼を奪われた気がした。別れてしまった彼氏と何があったかは聞けずじまいだったけれど、その後、私に「受験勉強を教えて」と言った菜摘は、努力を重ねて中学受験とは比べ物にならないくらい狭き門である、鶴ヶ谷の高校入学枠を勝ち取ってしまった。


 ――私はナツのことが好き。この気持ちに嘘はつけない。もう一度、菜摘に同じ道を歩いてほしいと強く願っていたのは、他ならぬ私のほうだった。親しい友人として、頼れる先輩として、幼馴染の隣人として。それだけの絆があれば満足できていたはずなのに、恋とは制御できないものなのだと、今の私は知ってしまった。


「ナツは私にとって、友だちよりもずっと特別で大切な人なの。だから学校の友だちは私とではなくて同級生の中で探さなくちゃ」


 私がそう伝えると、菜摘は箸を置き大きく目を見開いて、私を見つめた。


「ハルちゃんの特別って、どれくらいの大きさやの?」

「……つきあいが長い分、ナツの元彼よりは、ずっと大きいかもね」


 なかば確信的に口をついた私の言葉を受けて、菜摘は開いた目をとろんと伏せて、「そっかぁ」とつぶやいた。


「あのね、あたしハルちゃんみたいな彼氏がいたらって、ずっと思ってた。けど中学校でもハルちゃん以上に素敵な男子なんておらんやったよ」

「本当に? 彼氏と下校してるとき、ずいぶん楽しそうに見えたけど」

「ハルちゃんがいなくて寂しかったの。ハルちゃんと一緒にいる今のほうがずっと楽しいよ。だからね、ハルちゃんが、あたしと付き合うってゆうのは……どう思う?」


 うっとりとした眼差しを浮かべた菜摘に思わぬ色香を感じてしまい、私の心臓がきゅっと掴まれた。同時に、間違ったことを言わせてしまったんじゃないかという思いで満たされる。熱を帯びた菜摘の瞳が私に訴えかけていた。「依存をさせて、甘やかして、あたしにかまって」……この子は、居場所のない学校で安心を得るための保証を、私に求めている。それでも、その申し出に乗るだけで、ナツと今よりも先の関係へと進めるのなら抗うことなんてできない。そして、本音を言えば、私自身もナツを独占する確かな証が欲しかったのだ。


 このときの私は菜摘の放つ甘い香りをたどるのに必死で、後ろめたさに蓋をして見ないふりをした。


 私は、菜摘の手を取り口を開く。


「いいの? 私、本気にするよ」

「あたしの一番はずっとハルちゃんやよ。だからハルちゃんも選んで」


 ……変なの。私もナツも自分たちの言葉に酔ってるみたいに、ふわふわと流されてる。私は返事の代わりに菜摘の左手を取って、その小さな薬指に唇を寄せた。



 ――「好き」には色々な大きさと形があって、恋愛とは、その異なる形状をすり合わせていくパズルのようなものなのかもしれない。私と菜摘の「好き」は、大きさこそ似通っていたけれど、形はずいぶんと異なっていた。


 結論を言えば私の「好き」は菜摘には届かなかった。

 つきあい始めは菜摘の側から積極的にせがんできたキスも、私がその先の行為を求めて以来、目に見えて及び腰になり、やがて菜摘は日常的な手つなぎや軽い肌の接触すらも、身を引いて避けるようになってしまった。


 ふたりとも雰囲気に流されていたのは確かだけど、お互いに望んでいたことだったのに。つかまえたと思ったのもつかの間、私の手指の隙間から菜摘が砂のようにこぼれ落ちていく。どこで間違えてしまったんだろう。あの子を怯えさせるつもりなんてなかった。ひとつになりたい、つながりたい。私がそれを求めたことは間違いだったの?


「……ごめんね、信じて。ハルちゃんのことはずっと好きやの」

「分かってるから大丈夫。私が急ぎすぎたよね、私こそごめんね」


 私が頭を下げると、菜摘は泣きだしそうな顔をふるふると振った。


「ちがうの。ハルちゃんが男の子だったら良かったのにって思ったあたしが悪いの。ほんまはハルちゃんと一緒に飛び越えたいのに、どうしても怖いの。だから全部あたしのせいやの」


 その言葉は、私を打ちのめした。

 なにそれ、……私が男だったら受け入れてくれたわけ?

 あれだけ私のことを好きだって言っておいて、そんな後出し条件を今さら言われても困る。行き場の無い感情から、よくない言葉を口にしそうになり、私はすんでのところで飲み込んだ。


 私が好きなナツは女の子だったから、ナツがもしも男の子だったらなんて想像したこともなかったよ。男の子のナツなんて、それはもうナツじゃない。でも、菜摘は私を通して、私の向こう側にいる架空の男を見ていた。きっと、以前から。


 ナツの好きは私の好きとは違った。この子に必要なのは王子様で、私じゃなかった。どうしたって乗り越えられない壁は誰にでもある。それは個人にはコントロールのできないもので、菜摘を責めることじゃない。責められるべきは、ハルちゃんが彼氏だったらなんて言葉に舞い上がり、他の誰よりも菜摘を幸せにできるなんて思い上がっていた私の愚かさだ。


「ナツは悪くないよ。でも私たち、しばらく距離を置いたほうがいいと思う。でないと……」私は自分に耐えられそうにないから。

「やだよ。恋人じゃなくてもハルちゃんの側にいたい。あたしをひとりにしないでよ」


 菜摘は泣き出してしまった。今突き放すと菜摘は本当に学校で孤立してしまうだろう。私には、頷く以外の選択肢はなかった。


「分かった……そうだよね。私だって本当はナツと離れたくはないよ」


 ほんの些細な気持ちのずれで、こんなにも容易く恋は呪いに転換する。

 求めなければ、変わらずにいられたのに。こんなことなら、ただの幼馴染でいたほうがずっと幸せだった。


 クラスに馴染めず弱っている菜摘に気づいていたのに、それに付け込んで告白の言葉を言わせてしまったのは私の責任だ。だから、これは私が受けるべき罰だ。


 それでも神様、時間を戻してもらえませんか。恋人になることなんて二度と願わない。もう何も望まないから、お願い、どうか――。


 私の願いは天に届くこともなく、お互いに元通りの関係を演じながらも、その実、もう元には戻らないことをふたりとも理解していた。私たちは手が触れあうことにすらぎこちなさを覚えるようになり、このことは、ふたりの心にどろっとした澱のような何かを残したまま、学園は衣替えの時期を迎えた。

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