今現

萩津茜

今現

 朝、深い眠りについた。

 白む空々の部屋が居た。壁模様は、たった明暗で形成されているものの、そよ風に揺られ、波として変様するので、視線が留まる。ただ壁の落書きを観賞している。ただそれだけのようだ。

 呆としてどれほど経っただろうか。階下より軽やかな足音とコーヒーの香りが漂ってきた。ようやく、白光が瑞々しい窓から差し込むものであり、此の時候が朝方なのだと知った。丁度掛け時計が正面に在り、淡々とまた朝を示していた。

 その通り、理想的な、夢中かの胸を打つ朝が来た。という、夢の中に蹲っている。 今に此の私は温かな布団を抱きつ、ほろ苦いひとカップのブラックコーヒーと、ひと切れの食パンを、嗜もうというところなのだ。彼のささやかな、大いなる幸福である。 人の満足として優雅なモーニングタイムを差し置くものなどあろうか。夜明けの時候こそ、明けたその日の縮図なのだから。充分。或る人にとっての取るに足りないことでも、私と彼には充分。

 私は独立してから独りで暮らしてきたのだから、彼の朝はやはり借用でも恍惚となる。未だかつて、これ程に酔い高鳴る日々に逢っただろうか?




 朝、浅い目覚めが訪れた。

 どこまでも遠くより、白壁はこちらを照らした。正面に佇む扉の先は物音ひとつせず、吹き抜け風が布類をさするのだが、最早扉の先に空間があるとは到底思えない。 つまり、此の伽藍とした、私の見ている部屋が、世界の全てなのだ。そう感じている。 そのせいか、誰がしつらえたのか、独り横たわる此処は全くのメモリアルルームと化している。伽藍とはしているが、長く広い白壁には、整然と鮮やかな風景画が掛けられているのだ。以前から、どこか既視感を寄せていたが、そうだ、やはり私は、全ての絵画について、描写された場所を列挙できる。なにせ、幾日前に別れたひととの、 旅路を共にした地なのだから。

 ――ああ、なら、まだ夢現、鮮明だが、特にコーヒーの鼻を撫でる香りは、あのひととのものであった。この部屋で、私はずっと絵画を眺めては、あのひととの日々を追懐してきた。お陰で、夢であっても、あのひとと共に生活することができたのだ。 あのひとは叙情的に罷ることをして、心を揺らしたのだが。すなわち、夢の在り処は脳内だったのに、なんで一切思い至れなかった?




 朝、深い眠り、あるいは浅い目覚めに心酔した。

 透き通るような、絵画の部屋に、小鳥がさえずり、自動車が走った。コーヒーは、 はっきりと薫り立っている。お湯の沸く水滴と振動も響いてきた。

 今現のまま、遥か淵の、最も鮮やかで、最も脆い絵画にぐっと手を伸ばした。ついに腹も凍てつく床を這い、無我夢中で、守ろうとした。此処は私の、私達の世界だ。 その世界は此処を残して消滅したらしいが、確かに存在したメモリーが身罷れば、私達は永遠に、死んでしまうだろう。

 ふわふわした意識の雲が頭上よりも遠くに、だが瞭然と存在している。それが糸引いて掠れて、今に青空を見せるのだ。

 寝てはいけない。手放したくない。寝てはいけない、いつまでも。

 起きては、いけなかった。




 夢現のまま、独り食パンを噛った。永い支度を済ませ、独り当然に桜見を楽しもうと思った。そうして、家を出た。

 殻だけになった意志を以て、今でもうたた寝しながら、夢見心地の生活の在り処を探すのだ。

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今現 萩津茜 @h_akane255391

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