終章 に焦がれて
星の名前
天井が高く、窓から入る日差しは柔らかく室内を照らす。職人の技巧が遺憾無く発揮されたレースのカーテンが日の光を透かして室内に可憐な模様を作り出す。
そんな穏やかな昼下がり、座り心地のいいソファに細身だが繊細な刺繍があしらわれたドレスを着た妙齢の女性が優雅に腰掛けていた。その隣には女性と同じ黒髪と金色の目を持った、まだ幼い男の子がぴとりと寄り添うように座っている。
女性はその子供を慈愛の籠った優しげな瞳で見つめながら口を開く。
「いいですかシリウス、わたくしのかわいい息子。わたくしの子になったからには、貫き通さねばならないことがあります」
「なーにー?」
シリウスと呼ばれた男の子は大きな目をキラキラと輝かせながらこてんと首を傾げて女性を見上げた。女性は自分と同じ虹彩を持つ我が子を見て美しく口角を上げる、誰がどこからどう見ても隙がない完璧な微笑みだった。
「欲しいものは必ず手に入れなさい。どんな手を使っても、必ず」
「?」
「それが例えどんなものでも欲しいと思ったその日その瞬間から注意深く手を尽くしなさい。常に機会をうかがって、隙があれば迷わず手を伸ばしなさい」
幼いシリウスには女性の言葉が難しかったのか首を傾げたまま何度も瞬きをしている。そんな姿に女性は上品に笑って、彼女の夫とよく似ている質感の髪に手を伸ばした。
「あら、まだシリウスには難しかったかしら」
「うん、よくわかんねー」
「そう、じゃあもっと大きくなったらわかるかもしれないわね。お前はわたくしに良く似ているから、その時が来れば必ずわかるわ。わたくしがお前のお父様を初めて見た時なんて」
「かーさんそれもう何回も聞いたー」
「こういう話は何回だってしてもいいのよ、わたくしがそう決めているんだから」
「えー」
「お前のこの先の長い長い道の中、わたくしのような幸運に出会えることを祈っていますよ、シリウス。わたくしの可愛い子」
女性は我が子を抱き締めてまあるい頭に頬を擦り寄せた。
───
母の言葉を唐突に理解したのは十歳の頃だった。
目の前にキラキラと輝いている星みたいな存在が現れた。
──欲しいな。
漠然とそう思った時、思い出したのは母の言葉だった。「欲しいものは必ず手に入れなさい」言われたばっかりの頃はなんのことだかさっぱりわからなかったけれど、星と出会った俺は瞬時に「これのことだ」って確信した。
それまでも漠然と欲しいものは沢山あった。新しい練習用の剣だとか父親が身につけていた甲冑だとか色々。でも欲しいとは思ってはいても実際はあってもなくても困らなかったし、手に入れてしばらく経つと最初の喜びは色褪せていたし、特に感動もなかった。
でも“それ”だけは違った。
これが手に入らないと困るとそう直感した。何が困るのかはわからないけど、とにかく絶対に何がなんでも自分のものにしなければならないと思った。
『わたくしが初めてお父様を見た時、まるで雷に体を貫かれたようだったわ。運命の出会いってきっとああいうことを言うのね』
母はまるで恋をしている乙女のような表情でそう何度も俺たち兄弟に教えてくれた。
俺の母親は大貴族の娘だった。そして俺の父親は騎士団長だ。
本来ならこの二人が結婚することはまず有り得ないのに、父に一目惚れした母があの手この手を使って見事に妻の座に収まったのだ。子供ながらに母さんすごいと感心して拍手したのを覚えている。
そう、そして俺はそんな母に「よく似ている」らしい。
「俺シリウス・ルーヴ! お前は?」
「…アルデバラン・スタク」
星の名前を知って、口の中で何回も名前を言う。どんなスイーツよりも甘く感じる響きに顔が自然と緩くなるのがわかった。
(母さんもこんな気持ちだったのかなー)
このキラキラ光るお星様を、絶対に手に入れてやる。その時俺はそう固く誓ったのだった。
それから時が流れて俺は十八歳になった。
男二人が寝起きする為に充てがわれた部屋は必要最低限のものしかないシンプルといえば聞こえは良いが、まあ質素な内装だった。ベッドは兵士が寝るのを考慮しているからか大きくて寝心地も悪くない。
この部屋で俺がいいなーって思えたのはこのベッドくらいだったけれど、今はここが王宮のベッドよりも最高のものに思える。例えるなら楽園だ。
「…ん」
鼻から抜けるような吐息を漏らして腕の中の宝物が俺に体を擦り寄せる。
朝日が上り室内が明るくなると可愛い寝顔が良く見える。表情があまり変わらなくて顔立ちのせいで冷たい印象を与えがちなのに、寝顔はこんなにもあどけない。
昨夜も散々愛し合ったおかげで二人とも服を着ていないから肌が擦れる感覚が酷く心地いい。青空を切り取ったみたいな澄んだ目は今瞼の裏にあって、まだしばらく目覚めそうにないのを俺だけは知っている。
この感じならきっと起きるのは昼前くらいかな。
「…おはよう、アル」
起きないとわかっていても掛ける声は極力小さくする。この状態のアルを起こすなんて神であっても許されない蛮行だからだ。
でも俺は知っている、このままずーっとアルの寝顔を起きるまで眺めているとその後怒られることを。飯を食っていないこととか抱き潰したのを責められるだとか色々言われる。でもその怒りの八割を占めるのが羞恥心だとわかっているから本当はこのままでも良いんだけれど、穏やかな休日を送る為に俺は動かないといけない。
だって怒ったアルは口をきいてくれなくなる。それだけは嫌だ。
「……すぐ戻るからね」
多分今の俺の顔はとても不細工だと思う。絶対にここから離れたくないけどアルと穏やかに過ごす時間の為にここは心を鬼にしなくてはいけない。
細心の注意を払ってアルの温かくて滑らかな肌から体を離してゆっくりベッドから抜け出す。床に散らばった二人分の服はまとめて後で洗うとして、まずは着替えなくてはと後ろ髪引かれる思いで朝の準備を進めていく。
非番だから服装はとてもシンプルにパンツとシャツのみ。髪型だけは上げておかないと落ち着かないから鏡の前でいつも通りにセットする。顔も洗って部屋の掃除も終わらせれば朝の準備は終わりだし、このまま食堂にいけば食事だって摂れるのだがどうしてもアルの側から離れたくない。
怒られるとわかっていても離れたくないのに、アルはこんな俺の気持ちをこれっぽっちも理解してくれない。そういうところも本当に鈍いけど、そういうアルだから好きになったんだからこれはもうしょうがないのだ。
「…すぐ! 戻るからね!」
極力小さな声で訴えて決心が鈍る前に部屋から出る。最後に見たアルの顔はとても健やかで可愛くて綺麗だった。あ、どうしようもう戻りたい。
「あんりゃールーヴじゃんおーはよー」
「ザンナ班長…」
「え、何その顔。血反吐吐きそうな顔してるじゃんうっけるー」
「…おはようございます…」
「うんワンテンポ遅いおはよーありがとー」
部屋から出たすぐの廊下で声を掛けてきたのは一時期アルが移動していたヤードの班のリーダーだった。狐みたいに細い目と軽い喋り方で親しみやすいって前に誰かが言っていた気がする。
その班長が俺の顔を見た後に部屋に続く扉を見て「ふーん」と楽しそうに口角を上げた。
「スタクは寝てんの? 珍しいねぇ」
「…ザンナ班長は」
「班長無しでいいよー。俺君の班長じゃないしー」
誰かが親しみやすいって言っていたけど、多分絶対そんなことはない。と思う。
「…ザンナさんの答えわかってて聞いてくるとこ、苦手、です」
「……」
ぶはっ、思い切り吹き出した。
「だっはははは! ヒィ、なにそれ! ウケる! なんだよぉ、お前ちゃんと十八歳の青少年じゃーん」
文字通り腹を抱えて笑い出したザンナさんに目が半開きになるのがわかる。その顔を見て目の端に涙まで浮かべたその人が俺の肩をバンバンと容赦無く叩いて来た。アルはこの人を面倒見の良い優しい人だと言っていたけれど、絶対にそんなことはない。
本当に面倒見のいい人は、こんな顔をして人のことを叩いてこない。
「うんうん、いやーちょっと安心したー。ちゃあんと人間なんだねえルーヴも。てっきりスタクにしか興味が無いやつなのかと思ってたよぉ」
「……」
「え、なにその顔。おもしろ」
「俺は面白くねえ、です」
俺は基本的に人に興味はあんまりない。というかアルくらいにしか興味がないけど、この人とあと数人は話が別だった。俺は俺が強いって自覚しているけど、多分この人と対人で本気やったら負ける気がする、と何となく思うのだ。
だからこそ、油断ならないとは、思う。
「で、スタクは抱き潰しちゃったの?」
「……」
「一応俺先輩であり上司なのに今殺されそうな目で見られてるのたーのしー」
成り行きで二人で食堂に行くことになって数秒後の発言に思わず睨んでしまうとザンナさんはまた面白そうに笑う。
「そんな目で見なくてもだぁれも手出さないよぉ。あ、違うな、想像されんのも嫌な感じか」
「……」
「なるほどルーヴは俺が苦手だったから俺の班には来なかったのかぁ」
それに、なんてことないふうに言葉が続く。
「ヤードもいるしねぇ」
「……」
食堂に向かう道には他の兵士たちもいる。誰もが珍しい俺とザンナさんの組み合わせに一瞬驚くが次には興味を失ったふりをして歩いていた。その中でもザンナさんは口を閉じることはなく軽い口調で続ける。
「本当ヤードも報われない恋してたよねぇ。スタクはどう見たってルーヴにぞっこんだし、お前もお前で学生の頃から囲い込んでたらしいじゃん。周りへの牽制とか、それこそスタクが自分以外と仲良くなれないようにってさぁ」
食堂が近づくにつれて賑やかな音がしてくる。
「そのおかげでスタクの笑った顔すら大体のやつが知らないってえげつないことするよねぇ。まあ本人の性格とか元々の表情筋の問題もあるんだろうけどさー」
「……手を尽くしただけです」
苦し紛れに呟くと狐みたいな目を意外そうに丸めたあとまた糸のように細める。
「別に責めてないよ。やり方が容赦無いなぁって思いはしたけど、欲しいものの為に手段を選ばない感じは俺も一緒だしー?」
食堂に入る手前でザンナさんが足を止めた。一応空気を読んで俺も立ち止まるけど、正直一刻も早く飯をかき込んでアルのいる部屋に戻りたかった。
「だから最初に謝っとくね、ごめん」
「え?」
「ヤードがさぁ、スタクに木っ端微塵にされた日スタクに酒飲ませたの俺だしあいつを部屋にまで送れってヤードに言ったのもおーれ」
「は」
今までも予想外の事態はたくさん経験して来た。だからそれなりに対応ができるようになっていたと自負していたのに、どうやらそれは勘違いだったらしい。
言われた内容をパズルのピースのように組み立てていれば、完成の間近でまた声が聞こえた。思考が中断させられたことに苛立ちを感じたけれど、これもきっと計算の上だと思うとまた一段と腹の底に重たいものが重なっていく。
「そうでもしないとヤードが手に入りそうになくってさぁ」
「は?」
今度は完全に思考が止まった。何を言われているのかわからなくて思わず少し低い位置にあるザンナさんの顔を見て、唐突に理解する。
「さっき言ったじゃん、俺も手段選ばないって。お前が散々して来たことを俺もやっただけだから、まあおあいこね」
それじゃ、と軽く手を振って食堂に消えた人の背中を見て無意識に止めていた息をゆっくりと吐いた。言われた言葉を理解するよりも先に思ったことはただ一つ。
「俺、あの人苦手だ…!」
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