頭の中にはそればかり

 スタクはあいつの教師でも親でもなんでもない。

 昼間言われた言葉が妙に頭に残っていた。確かに僕はシリウスの親でもなければ教師でもない、周りから言わせたら世話係が妥当だろう。でもその呼称を僕は納得していない。


 シリウスは以前僕のことを空だと言った。

 抽象的過ぎて意味がわからないと思った。そこから連想すべきは、何をしても最終的には許してしまう心の広さという名の不甲斐なさのことかと思ったが、これも推測の域を出ない。

 なら僕はシリウスのことをなんと思っているのだろうか。


 ここ数日、僕の脳内は忙しない。

 シリウスが大怪我をしたあの日から今日まで沢山のことがあった気がする。一つ一つの濃度がすごくて、出来事を処理する前に新しい問題が浮かび上がってくる。

 僕は今でもあの日の夜のことを聞けないでいる。僕たちが体を繋げてしまった日のことだ。シリウスは僕を利用したと言っていた、でもそれをする意味がわからない。


 シリウスは天才だ。それは単に魔法の才能だけという意味ではなく、体の驚異的な回復速度やそもそもの肉体の強度すらも天から与えられた才能だと言うしかない程の資質を持っている。

 そのシリウスに掛かればわざわざ僕を抱かなくても少し我慢すれば自分で解決策を見出せたはずだ。それなのにあいつはそれをしなかった。


 でも結局流されたのは僕だ。

 あの日を境にして、多分僕の中でシリウスを見る目が変わっている気がする。


 ──僕はシリウスをなんだと思っているのだろう。


 この問いかけに以前であれば腐れ縁の友人と数秒と置かず答えることができただろう。でも今は、シリウスを友人と呼ぶことに抵抗を感じている自分がいる。でも友人でないのであれば、シリウスは僕にとってなんなのだろうか。


「アルー。考え事―?」


 ごく近い距離で声が聞こえたことに目を丸くして顔を上げる。

 すると思っていたよりも近い距離にシリウスがいて驚くが、鼻先に水滴が垂れて来たことに僕は眉を寄せた。


「また乾かさずに来たのか」

「だってほっといても乾くし」

「魔法を使えば一瞬だろうがこんなの」

「えー、戦うの以外で魔法使いたくなーい」

「はあ、お前ってやつは…」


 僕が溜息を吐くとシリウスは得意げに笑って僕の前に膝立ちになる。そうすると少しだけ僕の方が目線が高くなって、慣れた景色だとわかっているのに毎回新鮮だと感じる。


 シリウスの濡れたままの髪に両手を当てて、少しだけ意識を集中する。

 そうすると手のひらから柔らかな熱と風が起こり、烏の濡れ羽色のようだった髪が瞬く間にふわふわと柔らかくなって普通の黒髪に戻る。きちんと乾いたのを確認してから手を離すと、シリウスはその体勢のまま僕に抱きついて来た。


「…おい」

「やだ」

「まだ何も言ってない」

「どうせ離れろとか言うんだろ。やだ」

「……ならせめてソファに座れ。風呂上がりなのに床に膝をつくな、汚れる」

「はーい」


 にんまり、口角が上がったのが見えた。

 シリウスは立ち上がって椅子に座っている僕を軽々と抱え、今まで僕が座っていたソファに腰を下ろす。そのまま僕はシリウスの足の間に座ることになって、息を吐いた。


「どうしたの?」

「どうしたもこうしたもない。僕はずっと考えてるんだ」

「何を?」

「お前のことだよ。僕はお前に会ってからずっとお前のことばっかりだ」


 肩にシリウスの固い顎が乗る。


「どんなこと考えてんの?」


 声からしてシリウスの機嫌が良いのがわかった。


「僕にとってシリウスってなんなんだろうなって」

「アルにとって?」

「そう」


 シリウスが両手で僕を抱き締める。風呂上がりのせいか体温が上がっていて暑いくらいだが、まあ耐えられないこともない。僕は腹部に回っている腕の一本を引き剥がして手持ち無沙汰な両手でシリウスの手を揉む。


「お前にとって僕は空らしいが、僕にとってのお前はなんなんだろうな。この前までは友人だって言えたのに、今は難しい」

「なんで?」

「お前が僕を抱いたからだろうな」

「ぐっふ」


 こんなにあけすけに僕が言うとは思わなかったのか背後のシリウスが絶句しているのがわかる。触っている手にも力が入っていた。

 抱かれた。なかったことにするべきだと思っていた出来事を声に出して、また一段と深くやっぱり僕はもうシリウスのことを友人とは呼べなくなっているなと気づく。あの目と声と表情を思い出しただけで喉が渇くような気がした。


 あれはきっと、友人に向けるような代物じゃない。

 じゃあ何に向けて、と問われたら僕にはよくわからない。


「……お前は、男でも抱けるんだな」


 自分よりも大きく、指の一本一本が骨張っていて男らしい手をじっと見る。同じ訓練をして来て、大体同じ場所の皮膚が硬くなっている手の筈なのに、それでも僕とは全然違うものに見えた。

 この手があの時、燃えるような温度で僕に触れた。


「お前の中で僕は本当に空なのか?」


 気が付けば口を衝いて出てきていた言葉に僕自身が驚いた。

 まるでその例えが納得出来ないとでも言うような声音だった。不満が現れている声色だった。

 僕は普段考えてから声に出すようにしている。口は災いの元だと思っているからだ。

 だからいつだって、気負わないでいい場面以外はいつだって思考してから発言していたのに、今のは全くの無意識だった。そして思考が追いついた今、僕は俄に焦っていた。

 その発言の真意を、声に出した僕自身が計りかねていたからだ。


「──うん」


 湿度が、増した気がした。


「アルは俺にとって空だよ。でももっと別の言い方も出来る」


 今のいままで触れていた手が僕の片方の手と絡まる。

 親指の硬い皮膚が、僕の親指の側面を撫でる。ゆっくりと、存在を知らしめるみたいな撫で方に首の裏がかっと熱くなるのを感じた。

 腹部に回っている腕の力が増した。息を含んだ、静かだけど熱のこもった声が耳元で僕に囁き掛ける。


 この声を、熱を、僕は知っている。

 だから今、シリウスがどんな顔をしているのかだって、わかる。


「聞きたい?」

「聞かない」


 咄嗟に返した言葉に驚くような気配はしなかった。

 でもシリウスが笑っているような気がした。


「…アルが俺のことどう思ってるのか、俺わかるよ」

「…は?」

「わかるけど、これは俺から言っても意味無いから、早くわかってよ」


 まるで宿題が終わっていない子供を叱るような口調だった。

 それが妙に癪に障って眉を寄せる。


「どうして僕の気持ちがお前にわかるんだ。僕だってわからないのに」

「わかるよ」


 至極当然、そんな声でシリウスは言った。


「俺だってずっとアルのこと考えてるからわかる」


 多分アルよりもずっと長く、アルよりもアルのこと考えてる。

 一切の迷いがない言葉に僕は茫然とした。そんなこと、言われるなんて全く思っていなかったから。


 腹部に回っていた手から力が抜けた、その代わりおとがいをそっと掴まれて後ろを向かされる。あっという間もなく僕たちの唇は重なって、輪郭がぼやける程の距離にいるシリウスの後ろには未完成の月が輝いて見えた。

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