朝になって聞こえる鳥の声
目が覚めた時、目の前には見慣れない色があった。
否、見慣れてはいる。けれどそれがこんな近くにある事がおかしい。それにとても温かくて、どこか落ち着くような香りもする。
僕はこの香りを知っているような気がするけど思い出せなくて、それにいつもはすぐに目覚めるはずなのに今日はどうしたって眠くてまた目を閉じる。
とてもあたたかい。もしかして夢なのだろうか、夢なのに温度を感じるなんてこと有り得るのだろうか。そもそも、肌色が見えるということは外はもう明るいのだろうか。
ということは、
「今何時っ、ゲホ、ゲホっ!」
飛び起きる、そんな表現が正しい勢いで僕は上半身を跳ね上げて、そして咳き込んだ。
驚愕する程声が枯れていて、そして主に下半身が痛くてしょうがない。さらには服を着ていないし、僕の隣にはシリウスがいた。
「…──は?」
シリウスも服を着ていない。僕たちは裸だ。中途半端に僕の腰回りにシリウスの腕がある。ということは先程まで温かいと思っていたのはシリウスの体温で、腕の形状からして僕はもしかして抱き締められていたのだろうか。
思考は混乱を極めているのに、少しでも情報を集めたくて僕の目は忙しなく辺りを見渡す。
外はもう完全に明るい、遅刻だ。完璧に寝過ごしてしまっている。服はどこに、ベッドの下に乱雑に投げられている。そもそもどうしてシリウスと一緒なんだ──。
「アルぅ…」
カチ、とパズルのピースが嵌まるのと気怠げに起きたシリウスがいとも簡単に僕をベッドに引き倒して覆い被さるのはほとんど同時だった。
僕は、この距離で見下ろされるシーンを知っている。狂気めいた光を宿した目が、僕を射殺そうとしていたのを知っている。
『ちゃんと俺を見て』
ぶわりと全身に血が巡る。沸騰しそうな程体中が熱くて、でも何か言葉を発そうにも何も出てこず無意味に唇を戦慄かせる。
心臓が壊れそうなくらいうるさくて、今すぐ消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。それくらい昨日の出来事は僕にとって想定外だ。昨日みたいにまた思考が止まる。どうしたらいいかわからなくなる。こんな時僕はどんな対応をしたらいいのかわからない。どうしよう、どうしたら。
「うぐっ」
ぼすん、結構な勢いで僕の上にシリウスが倒れてきた。
丁度肺の辺りが圧迫されて苦しさに呻くと、僕の上にのしかかるシリウスから聞いたことがないくらいか細い声が聞こえた。
「…しんどい…」
「…は?」
僕の声はやっぱり酷いくらい枯れているけど、シリウスの言葉にそれまで感じていた羞恥心が消し飛んだ。
そうだ、こいつは昨日様子がおかしかった。それで僕に助けを求めに来たんだ。
「どうした、大丈夫か」
「…だいじょばない。胃のなかがぐるぐるする」
「急いで医療班を呼んで」
「やだ」
「はあ?」
「やだ。ここにいてアル。アルがいてくれたら治るから、今日は絶対出て行かないで」
どこからどう聞いても拗ねたような声でシリウスが訴えて、僕よりもひと回りは大きな体が蛇みたいに僕の体を抱き締める。駄々をこねる子供かと溜息を吐き背中を叩く。
「何を言ってるんだ。僕は今日非番じゃない。ただでさえ遅刻してるんだからさっさと離せ」
「やだ」
「シリウス」
「やだ!」
息をするのも苦しいくらいの力で抱かれて眉間に皺が寄る。
「うるさい早く退け」
「……どいても、多分アル動けないと思う」
抱き締める力はそのままに、シリウスのいつもはきりっとしている少し太めの眉が子犬みたいに下がる。しょもしょもとした、今にも怒られそうな顔に僕は「はあ?」と返すが口から出そうになった反論はすぐに喉の奥に消えることになる。
「昨日、というか、その、結構無理させちゃったと思う、から」
いつになく歯切れの悪い様子に、抱き締めていた腕の力が緩んで片手が僕の腰を撫でたのに、治っていた羞恥が先程よりもずっと凶悪に噴出する。
まだ僕の中で夢と現実の区別がついていない出来事。現実として受け止めるにはあまりにあり得ない事柄すぎて、でも夢だと断定するには状況証拠が揃い過ぎている。
シリウスの僕を見る目が、いつになく柔らかい気がする。
やめてくれと叫び出したくなった。そんな目で見ないでくれと言いたいのに、僕の唇は縫われたみたいに開かない。シリウスの大きな手が、皮膚の硬くなった指が僕の頬を撫でた。
そんな仕草が凶器みたいに僕に現実を叩き付けてくる。
──僕は、昨日、シリウスと体を繋げてしまった。
認めざるを得ない状況に呼吸の仕方すら忘れてしまった気がした。
全身が発火しているのではと思うくらい熱いから、きっと僕の顔どころかシリウスから見えている肌全部が赤くなっているだろう。ぎゅう、と唇を噛んで何故か熱くなった目の奥から水が出ないように眉間にこれでもかと言うほど皺を寄せて耐える。
「ご、ごめんっ。いや、全然ごめんって思ってないけど、でもごめん! 恥ずかしかったよな、ごめんな。でもちょーかわいかったし、俺もちょー気持ちよかったしいってえ!」
右手をシリウスの頭に突っ込んで髪を掴むとシリウスの目に軽く水の膜が貼る。
「…それ以上喋るな、くそあほが…!」
「……はい」
しゅん、と実際は有りはしない獣の耳が垂れ下がっている幻覚が見える程しおらしく頷いた様子に僕は居た堪れなくなって無理矢理体を反転させて顔を枕に埋めた。
「…アル?」
ああ、クソが。
今少し体を動かしただけでわかる。尋常でないほど体が疲れているし、足腰には妙に力が入らない。あらぬ場所がひりひりと痛むし、枕から香るシリウスの匂いで頭が沸騰しそうだった。
「ある、アル。なあ怒った? 俺のこと嫌いになった? 次はもっとちゃんとするから、だから怒んないで」
「しゃべるなって言ってるだろ」
もう何もかもが恥ずかしくてとても正気を保っていられなかった。
またのしかかって来たシリウスの重みとか体温とか、必死に許しを乞う声だとか、そう言うのが全て僕の心を容赦無く掻き乱す。何をしても思い出してしまうのだ。
昨日の夜見たシリウスの昏い光を宿す目の熱だったりおかしくなる自分だったりが瞼の裏に点滅するみたいに貼り出される。ああいやだ、すごく嫌だ、羞恥でどうにかなってしまう。
枕で両耳を塞いだ僕を見てシリウスの困惑が伝わって来る。
だけど僕にはそんなものを気に掛けている余裕なんてこれっぽっちも無かった。
どうにか記憶が無くならないものかと本気で考えたけれど、そんな都合のいいことは起こりはしないのだ。
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