季節が変わる時

小鷹竹叢

季節が変わる時

 初めて恋人が出来た時、私は何かに期待をし過ぎていたのかも知れない。子供の季節は終わった。これからは新しいものが始まる。そんなことを思っていた。人はこれを子供の浅はかさだと言うだろうか。しかし少女の鋭敏な感性は確かにそれを予期していたのだ。


 彼からの告白は正直に言えば驚くべきものではなかった。田舎の中学生男子が恋心を隠す術など身に付けているわけがない。視線も感情も常日頃から全身に突き刺さるほど感じ取っていた。背中に投げ掛けられるそれらをむず痒く思って髪を掻き上げたことは何度もある。


 余りにも明らさまな恋情は私の女友達の目にもはっきりと映っていた。彼女らは私を冷やかし、その度に困ったような、少しばかり迷惑だとでも言わんばかりの返事をしていた。


 貴方が私をどう思っているのかは知っている。さっさと告白するならすればいいのに。その時をじれったく待っていた。受け入れるか断るかは別として。曖昧な態度が煩わしかった。


 しかしついに九月の六日、彼は私を学校の近くの公園に呼び出し、ブランコ脇の欅の下で告白をした。素朴でたどたどしくつたないものだった。だがそれだからこそ偽りのない直截的な感情が伝わって来た。透き通りつつある空に浮かんだ太陽が、夕陽に変わろうとしていた。私はうなずいた。


 楽しい交際が始まった。まさに楽しい交際だった。苦味も苦しみもない、楽しいだけの付き合いだった。悪いことはない。


 彼はまるで世界中に私を自慢したいようだった。溢れんばかりの愛情を私に注いだ。純粋な愛情は私を喜ばせ、得意にもさせた。嬉しさは私に彼への愛情を生ませた。


 中学を卒業するまで続いた一年半の交際のエピソードを詳しく書き立てるつもりはない。冬空に星がちりばめられるまで話し込んだとか、春先には花見で愛らしい睦言むつごとを交わしたとか、夏休みを共に過ごしたとか、体育祭での活躍や、文化祭での遊興や、受験勉強での励まし合いだとか。当人にとっては輝かしい思い出だが、他人からしてみれば陳腐でよくある話でしかない。


 結局のところ、よくある子供の恋人ごっこで私達は終わった。高校は別のところへ通った。それでも感情は繋がり続けるものだと思っていた。物理的な距離は心も切り離して行くものだと当時の私達は知らなかった。劇的な場面が演じられることもなく自然と別れた。


 終わってみれば何もなかった。楽しかったのは否定しない。しかしそれが私を、人生を、別の何かにすることはなかった。子供時代の延長に過ぎず、季節の転換など起こりはしなかった。


 彼と別れてから間もなく新しい恋人が出来た。同じ高校の先輩だった。私にはその人が大人に見えた。


 それは確かに間違ってはいない。私がその時受けていた授業は彼は既に受けていた。それより先のことを学んでいた。高校生活の諸々においても私が知ることは彼は既に経験していた。知識と経験とを持つ彼が、私を今いる場所から引き上げてくれる気がした。


 秋のある日、夕陽に染まった彼のベッドで私は抱かれた。物慣れた雰囲気は私を安心させ、頼りになると思わせた。初めての経験に私は緊張もし、激しく興奮もした。胸は破れるほどに高鳴った。


 だがそれだけだった。一時の興奮に過ぎなかった。それが終われば何事もない、特別なことなど何もない、何でもない行為でしかなかった。箸でご飯を食べるのと同じようなものだった。それからは単なる日常だった。人によっては大事のように扱うセックスも何も変えはしなかった。


 彼と別れて他の男と付き合い、高校を卒業して大学へ行き、それから新卒で就職した。その間に何人かの恋人を持ったが、人生を変えるようなものは起こらなかった。


 こうして思えば私は男に期待をし過ぎていたのかも知れない。どんな男も畢竟ひっきょう単なる人間だ。季節を変えるような力を持っているわけではない。


 季節とは緩やかに流れて行くものであって劇的に転換するものではない。たとえば稲妻の一撃が夏を秋に変えるというようなことはない。静かに、気付かぬ内に、いつの間にか変わっている。運命の瞬間などはない。


 人生もきっとそうしたものだ。子供の頃と大人になった今とでは同じ季節であるとは言えない。自分自身も周囲の環境も全く異なるものになっている。知らない内に成長し、変化していた。人生を一瞬にして変えるような、そんなものは起こらなかった。ただ日々が淡々と流れて移ろいで行く。


 季節が転換する瞬間、稲妻の一撃、そんな何かを期待していた私でも、いつしか諦め、事実を受け入れるようになっていた。何事も起こさないゆったりとした自然の歩みに身を任せる内に、気が付けば私も二十代の終わりに踏み込んでいた。


 得意先への挨拶からの帰り道、朝から降り続いていた雨は夕方には激しくなっていた。頭上に広がる傘の布地を雨が間断なく叩いていた。適度な雨音は心地良い。だがそんな感情とは別に現実的な思考も働いていた。隣を歩く後輩を横目で見た。


 この男は中途ではあるが入社したばかりだ。前職でも営業をしていたと聞いている。が、果たしてどの程度やっていたのか。先程の挨拶ではこちらが冷汗を掻くような失言をした。先方は笑って許してくれたが。


 定時も過ぎてこの日は直帰ということになっていた。しかし少し反省会をした方が良いだろう。後輩は肩を落として自分のミスを悔いているようだった。それでも注意をするだけは。食事に誘うと声音こそ平静だったが明らかに動揺していた。


 個室の居酒屋で不味くもないが美味くもない料理を食べながら、感情を交えないよう努めつつ叱責をした。淡々として、出来るだけ柔らかく、パワーハラスメントにならないように。それでも彼は子犬のように縮こまっていた。こちらがやや申し訳なくなるくらいに。


 まあ次から気を付ければいいんだよ。と言って話を終わらせた。次からでいい。そうだ、こんな仕事は次から次へと何度もやる。すぐにいつものルーティンになる。


 手元にあった焼き鳥のつくねの一本を、これ美味しかったから食べてみ、と言って渡した。別に美味くはなかったが話題を変えたかった。


 彼は一口食べて口許を押さえ、美味しいですね、と答えた。単なる社交辞令だろう。これが大して美味くないのは既に食べている私は知っている。


 でしょう、と言いつつ、今日のミスは仕方がないと考えた。彼は新人なのだから。偉そうに説教をした私にしたって、何度も経験したから機微を読めるようになっただけだ。凄いことは何もない。物慣れただけだ。


 それからどうでもいい世間話をしながら食事をし、会計を済ませて店から出ても雨はまだやんでいなかった。むしろ更に強くなっていた。篠突しのつく雨はもう感傷を催させるものではなく、横風も吹いてスラックスを膝辺りまで濡らした。真黒い雨雲からは遠雷も聞こえて来そうだった。この天気の中を帰るのは億劫に思えた。だが仕方がない。


 駅までの途中で信号機に捕まった。普段なら何とも思わない待ち時間が、雨風に晒されて長く長く感じられた。


 そうしてふと隣で同じように立っている後輩を見た。得意先での失敗も、居酒屋での叱責も、何もなかったかのように、この煩わしい雨すらないように、平気な顔で前を向いていた。


 気にしていないならそれでいい。そう思って視線を戻そうとした瞬間、傘を持つ彼の手の甲が視界の端を横切った。それは皓々こうこうとして稲妻のように白かった。気が付いた時には目を奪われていた。


 この時、私は季節が変わる予感を抱いてしまった。年齢を重ねて鈍くなっていたはずの心臓が、少女のような激しい鼓動を打っていた。

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