山田

畦道

 ある男がいた。男は腐った目をしたまま、暗い泥道を歩いていた。月明かりだけが男のたよりだった。その光は男とぬかるんだ泥道を照らし、かすかに笑っているようだった。しかし男の目に光が宿ることはない。彼はただ、まるで死人のように、グラグラと足を動かしていた。彼はなにも考えていなかった。なにも憶えていなかった。月明かりはあるのに月は見えない。男にとってそれは、寂しくもあり、また唯一の光だった。その泥道はずっとずっと先まであるように見えた。安定しない足を、意味もなく出し続ける。彼はときどき月を見た。見えないはずの月が、優しく微笑んでいるように感じた。そしてまた歩き始めた。どこへ向かっているかもわからない。何に意味があるかも知らない。男はただ、黙って歩き続けるばかりだった。

 するとどこかから、女の声がした。「ここだよ。ここだよ」と叫び続けている。男はちらと先を見据え、また同じように進みだした。「ここだよ、ここだよ」女は叫び続けている。男はなにも変わらない。返事もしない。顔色も、進む速度も。ただただ、下を向いているだけだった。女の声がした。「ここだよ、ずっと」なにもわからない。彼はときどきフッと顔を上げるだけだ。眼球はまったく動いていない。「ここだよ。ここだよ、お兄さん」靴についた泥は乾く間もなく、また次の泥に埋もれる。この茶色の道を、俺はあと何歩すすんでいけばいいんだ、男はそう思っていた。

 すると突然、男は泥の道に倒れこんだ。生温かい泥が、男の体を包み込んだ。力なく倒れこむ彼の目は、茶色く濁っていた。男はただ星を見上げたかった。星を見て、月を見つめて。力なく倒れる男には、到底むりな話だった。「ここだよ。わたしだよ」また女の声がする。泥の生温かさに包まれて、男は徐々に目を閉じた。「あなたに会いにきたの。お願い、わたしを見て」夢の中でさえ、女は叫びつづけていた。

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