夏の森、陽の光そそぎ

梅林 冬実

夏の森、陽の光そそぎ

キャンドルホルダーに灯されたあかりを眺めていた。

夜、清浄な空気に身を濯がれるような感覚は、初め困惑するものの次第に心地の良いもののように感ぜられるから不思議だ。


木製の十字架にキリストは宿る。蝋燭の炎だけが頼りの空間にぼんやり浮かび上がる神の子は、物憂げな表情で瞳を虚に落としている。


鬱蒼とした森の中。忘れ去られた古い教会は、扉の文様が印象的な小さな建物だ。

幼い頃祖父に連れられこの辺りを散策するとき、先をせがむ僕の手を握ったまま身じろぎひとつしない祖父の、屋根に掲げられた十字架を見る姿がどこか悲しげだったことを思い出す。祖父は昨年亡くなったのだけれど、資財の全てを僕らの知らない人にと遺すと記していたとかで、家族は大わらわだ。

大人たちの醜い会話から少しでも離れたくて僕は、母に強く同行を求められこちらへ来るたび祖父との記憶を辿った。どうせあの人は挨拶もそこそこに仲のいい叔父と額を突き合わせ、何やら話し込むのだから。僕なんかそっちのけで。道中愚痴を吐き出す相手が欲しいだけなのだ。だから僕は母を置いて外に出る。祖母の泣き言も暫し付き合ってみたが聞くだけしていたら、祖母を嫌いになりそうだから撤退した。


祖父の気持ちなんて結局誰も、知らずにいたのだ。妻も子供たちもみんな。支えてやれなかったことを悔いる人は一人もいないのだもの、付き合いきれない。だから僕は祖父の仏壇に蝋燭と線香を灯し、手を合わせたら外に出る。彼らに対する僕の役割はそれで終了だ。

もうあちこちの記憶は薄れてしまっていたから全てを思い出すことはできなかったのだけれど、祖父宅から暫し歩いた森で捕まえたセミを放してやれと僕を諭した祖父の優しい眼差しを覚えているから、楽しいひと時に違いない。

木々は優しい。幾分涼しい土の上を歩くのに夏の日差しを枝や葉が遮ってくれる。鼻腔に届く香りは穏やかな夏が醸すそれで実に心地がいい。

カッコウの声が響き思わず空を見上げる。枝葉茂る夏の森、14時になると現れる黒衣の人に出会えたのは偶然でしかなかった。


祖父はその場所をこよなく愛していた。所縁や由来を知り尽くしていた。まだ学生だった時分、友と呼び合ったクラスメートが通う小さな聖堂に祖父も足繁く通った。神父は鷹揚な人だったそうだ。日々に悪など存在しないと愚直に信じていた祖父は、友が神父に落涙しながら懺悔する姿に強い衝撃を受けた。


「君、何も悪いことしていないじゃないか」


驚く祖父に友は暫く無言でいたそうだ。告白を聞いたのはそれから暫く経った夏の夜。自室に招いた友の「思い」に祖父は耳を傾ける。


「君は人を妬んだことがあるか」


そんな問いから友の話は始まった。人を妬む心を友は憎んでいた。自身に蔓延る毒念に打ち勝とうと葛藤するが、どんなにそれを打ち砕いても次から次に悪意は姿形を変え心を蝕む。純白であるはずの自身のコアが生ずるはずのない漆黒に侵略されてしまうことが、それに抗う術を持たないことが、友にとってこれ以上ない辛苦となって彼を打ちのめすのだった。


「君、少し考えすぎじゃないのか?」


祖父の呟きを友は聞き逃さなかった。


「そんなはずないじゃないか。何故なら僕はこんなにも苦しんでいる。気の迷いであったならとっくに振り払っている。何度も打ち砕こうとしたからね。でもできなかった。叩きのめした傍からすぐ僕の心に奴らは瀰漫する。逃れたくても逃れられないと気付いたときの絶望ったらなかったさ」


一息に喋ると友は深く息を吐き出して


「君なら分かってくれると思ったんだ」


そう言って祖父をじっと見つめたそうだ。


「友」の話をするとき、祖父は少し苦しそうに頬を歪めた。仲のいい友人の話題なのに何故そんな顔をするの?幼い僕は祖父へ素直に疑問をぶつけた。


「友達の話なのにおかしいかい?」


しゃがんで僕に目線を合わせた祖父は決まってそう言った。友との付き合いはこの後も続き、大人になってからも語らいは続いたそうだがその人は54歳で亡くなった。喉の癌だと祖父は言った。

「最後はもう話もできなくなってなぁ」

初孫の顔を見るまで死ねないと言っていたそうだ。

友の孫を僕と同じように祖父が愛おしむことを僕は意外に思わなかったけれど、祖母はそうでもなくて。


「どうして?」


僕は率直な疑問を祖母にぶつけた。あれほど気にかけていた友に愛でられることは遂になかったその子を、祖父が代わりに大切にすることはとても自然なことのように思えたから。

「どうしてって・・・!」

祖母は心底意外!と言わんばかりに椅子から立ち上がり眩暈を起こした。「あぁ・・・」と小さく唇を震わせ不確かな姿勢で椅子に落ちたものだから、傍で僕らの会話を聞いていた母が頓狂な声を上げ


「あんたどうしてそんなこと言えるの?おじいちゃんはおばあちゃんを裏切ったんだよ!」


誓って言うが祖父はふざけた生き方をしていない。寧ろあの教会に大切に保管され、幾人もの人にページを開かれた聖書に登場する上人のような生き様だった。誰からも尊ばれ慈しまれ。祖父は僕の誇りだった。祖父のようになりたいと願った。その祖父を祖母も母も賎しい言葉で詰るのだ。全財産を友の孫に相続させると遺言書に認めていたから。


森を太陽は優しく照らす。心地よい風が吹き外部の炎天下が嘘のような過ごしやすさだ。昼が過ぎるのを待って僕は祖父から教わった教会へ向かう。シスターが訪れるのは14時少し前。平日この時間から暫くのひと時、彼女はここへやって来る。恐らくはメンテナンスの意味だろうと思うがひょっこり現れた僕に驚きつつも、教会を案内してくれたのは7月下旬。夏休みに入り母に付き合わされ祖父宅を訪れるようになったすぐの頃だ。

祖母の話にうんざりするようになったら告解の部屋で、シスターに話を聞いてもらうのだ。殆どが愚痴だが仕方ない。主が消えた家は日を追うごとに黒い靄がかかっていくように思える。

祖父は多弁ではなかったし寧ろ祖母があの家の明かりのように受け止めていたけれど、祖父がいなくなり祖父の本心を知り心荒れさせた祖母は、いよいよ毒を撒き散らすようになった。祖母の心の均衡を保っていたのは祖父だったと気付いたとき、ならどうして祖母は祖父の声に耳を貸さなかったのだろう?と素朴すぎる疑問を抱いた。祖父は祖母を謗っていない。僕にしてくれたように祖母にも友の話や友の心残りを語りたかったに違いない。

「もうおじいちゃんは!そんなのあとあと!」

微笑みながら祖父を黙らせ自分のペースで空間を動かす。祖父から何も聞いていないと祖母は泣き狂うが、聞かなかったのはおばあちゃんじゃないか!という憤りは僕の心から絶対に消えない。祖母を変にアシストする母も狡いと思う。祖父は母をとても可愛がっていたのにさ。


清掃を終えシスターは汗をふきふき祭壇の前に立つ。僕は十字架からシスターに視線を移して起立する。それぞれ恭しくお辞儀して聖書を学ぶ。ただ愚痴めいた話を聞いてもらうだけでは申し訳ないと感じていたところ、シスターから

「お勉強していきませんか?」

と声掛けされたのだ。何をと思う間もなく真新しい聖書を手渡され席に着くよう勧められ。こういう過ごし方もいいと思い聖書に目を落とした。ストーリー仕立てでないと17歳になって初めて知った。

澄んだ声は様々な場面において人としてどうあるべきかを告げる。僕はそれにいちいち納得し、その通りだと実感し強く頷く。その様子がおかしいようでシスターは時折僕を見て笑う。彼女に年齢を尋ねたのは全くの気の迷いだ。24歳と耳に届いた瞬間心臓がドキリ動いたことを、告解する日はきっと来ない。


「その子今14歳で。まだ中学生なんです」

本来告解は神父にしか担えないとシスターが教えてくれた。僕の下らない話に付き合ってくれるこの人は、ここに2度目訪問した日「そういえば」と告解室を見せてくれた。圧迫感のある空間だがどうしても聞いてほしい打ち明け話や懺悔なら、こういう雰囲気の方が語り易いのかも知れないと感じた。僕はいつも祭壇から3列目の真ん中の席に腰掛ける。祭壇に立つシスターから少し距離を取るように。シスターはそのことを知ってか知らずか1列目の席に腰掛けこちらを向き、僕に微笑みかける。

語らうひと時は有意義に違いなかった。誰に打ち明けようもない心の重荷を荷解くのにここほど最適な場所はなかったから。


「夏実ちゃんっていうんですけど、あの子にとってもそれは予想しなかったことだからとても驚いていたんです。どうしてそんなことを?って僕も聞かれました。上手く答えられなかったんですけど」


僕は一呼吸おいた。この先の話になる気持ちが混乱してしまうからだ。とても。


「祖母があんなムキになる人だと知りませんでした。祖父の意向を汲んでその通りに計らってくれると。祖母は特に金銭に困っていませんし」


昭和22年まで華族だった母を持ち「没落家族」と冷笑されながら、父は仕事に励み財を成した。人を何人も雇えるようになり没落家族から成金家族に変貌を遂げた。祖母は「蝶よ花よで育ってきたのよ」といつも言っていた。蝶よ花よで楽し気に生きてきた。これまでずっと。


「祖父は何度も祖母に打ち明けようとしたんです。自分の気持ちを。でも祖母が全く聞かなくて。いつまでも祖父は元気だし自分は幸せだし、と思い込んでいたとしか思えなくて」


静かな瞳がそっと頷く。こちらの話に耳を傾けるシスターに黙礼して僕は続けた。


「最期の頼みなんだからきいてやればいいのに。完全被害者になって毎日泣いてばかりで。祖父は子供にも平等に接していたんですけど僕の母も叔父も、祖父をきつく詰るから嫌になって」


「夏実ちゃんのお母さんと不義理したんじゃって祖母が言い出したときに気付いたんです。僕この人無理かもって」


「本当にそんなことを考えているわけではないのかも知れないけれどね」


シスターの穏やかな声が大きくうねった僕の心を鎮める。そう、確かに祖母は本気で祖父を疑っているわけじゃない。祖父が自分を謗ったことが許せないのだ。祖父は祖母を大切にしていた。だからこの騒動に犯人はいない。誰も悪くない、はずなんだ。


「夏実ちゃんは驚いて相続放棄するって言ったんですけど」

「お母さんが特別代理人になったくらいから、どんどん話がおかしくなって」


僕は祖父の気持ちが届けばいいと考えていた。けれど相手にしてみればそれは嬉しいことと限らない。ありがた迷惑なんて言葉があるくらいだ。夏実ちゃんはまだ子供だし夏実ちゃんの両親はしっかりしている人たちだし、大人の配慮がされるだろうとも感じていた。どうなるかなんてそもそも僕には関係のないことだったし、連日こんなにも付き合わされることになるなんて当初は考えてもみなかった。


「夏実ちゃんのお父さんがリストラにあったらしくて。同じ頃にお父さんの方のおじいちゃんが介護施設に入ることになって、お母さんはパートで働いていたけど生活費も回らなくなるくらい大変だったみたいなんです」


「夏実ちゃんから連絡がきたときは残念に思ったんですけど、そのすぐ後お母さんが代理人になったって聞いて『あれ?』って」


「祖父は喜んでいましたね。頼ってもらえることが嬉しくて堪らないといった風でした。だけど祖母が狂ってしまって」


「怒りとかじゃなく、本当に狂ったんですよ。狂人って言葉とその意味を、僕はあの時知りました」


上品で優しくて穏やかなな祖母は別人のように猛り狂い夫を詰った。どういうつもりだ、あの女と密通しているんだろう、今すぐ辞退しろ、あの金の亡者を引きちぎって放れ!亡骸を焼き払え!!


「震え上がって声も出せなかったです、僕は。怖くて堪らなくて母にしがみ付いたんですが、母もそんな祖母の肩を持つんです。地獄絵図でした」


シスターのまつ毛に雫が宿ったように感じた。誰を思っているのだろう?優しかった祖母の狂乱ぶりに怯えた僕だろうか?それともそのとき僕は見ることができなかった、苦渋に打ちのめされる祖父だろうか。


「祖父は何度も対話を試みました。祖母に自分の気持ちを打ち明けようと何度もした。けれど祖母は祖父が少し話すことも許しませんでした。今すぐ自分の言うとおりにしろと何度も、何度も」


詰られ拒絶され否定され。そんなことが続くうちに祖父は祖母の全てを諦めてしまった。祖父の乱心は収まった。祖父以外の大人はみんなそう思った。

けれど祖父は夏美ちゃんに全財産相続させた。古い付き合いの弁護士に全てを託して。


「葬儀は盛大に取り仕切られました。祖父は長く社会貢献してきましたし福祉活動も。この教会もなくしたくないというのであちこちに取り合ってもらって。弔問に訪れる人は途切れませんでした」


そうでしょうね、シスターのつぶやきが聞こえる。放心状態の祖母、泣き喚いてばかりの母、母を宥めるのにやっとな叔父。身内を見る限り祖母に引きずられていないのは僕だけだと思ったので、僕はせめて自分くらい祖父に寄り添おうと考えて、椅子にかけ祭壇を見つめていた。黙礼する弔問客に黙礼を返し再び祭壇へ目線を移す。入院病棟の特別室。もういよいよだと医師の診断を受けた祖父が身罷るまで、魔窟と化した。あちこち管に繋げられ息も絶え絶えの祖父に、祖母はいつまでも呪詛を唱えた。病室が1泊15万円かかることも、これ以上ないくらい醜い言葉で詰った。

せめて最期は自宅で迎えたいという祖父の願いは叶えられなかった。


「お返しよ」


鋭い声は祖母のもので僕は耳を疑った。夫が死するときくらい、人間としていられなかったのだろうかと。


「それで、夏美ちゃんは、今は?」


ああ、僕は我に返って


「お父さんの仕事は見つかってお母さんはまだバタバタしているらしいですけど、でもひと頃よりは落ち着いているみたいですよ。高校は私立に行きたいって言っているみたいです」


情報源は母で母はこの話を苦々し気に打ち明けてくれたのだが、僕は喜んだ。夏美ちゃんに罪はない。祖父にも。


「今は混乱の中にあるかも知れませんが、きっと神は皆さまを正しい道へと導いてくださいます。信じましょう」


シスターは言って胸元で十字を切る。いつ見ても心に強く訴えかける仕草だ。



シスターに別れの挨拶をして僕は教会を後にした。

黒衣の人は最後まで親切にしてくれた。神様に一生を捧げるから恋も結婚もしないのだと誰かが話していた。結婚が必ずしも幸せを育めると限らないことを僕は知っているから、そんなものに夢を見ることはない。シスターが祈りの人生を歩むというなら心からそれを尊重したいと思うだけだ。

シスターはいろんな話を聞かせてくれた。彼女が信心する神様は全知全能らしい。それなら祖母や祖父の友人が抱く遺恨をも、神様は救い上げてくれるのだろうか。祖母が心から恨む祖父はもう天上の人になったし、祖父の友人が憎んでいたのは「全てを掌握している君」だったらしいけれど、彼ももうこの世界に留まっていない。神様の威力はこの先どこかで発揮されるのだろうか。僕は希望していた大学を変更した。実家から遥か離れた場所にある学舎に通うつもりだ。祖母や母や色んな人からくっつけられた怨念を払うために。


シスターと交流する好機は祖父からの贈り物だったのかも知れない。僕は無力だから祖父に強い心で寄り添うことができなかったけれど、でも心の部分で祖父を裏切ったことは1度もない。母にも祖母にもどんなに罵られても彼女らに同意したこともない。

友達だと信じて疑わなかった人は心の底から自分を恨んでいて、その気持ちに気付けなくて随分無神経なことをしてしまったと祖父は悔恨していた。祖母も母も叔父もみんな暮らしには困っていないし、相応の生活はさせてきたつもりだと祖父は言った。


「最後くらい、我儘を聞いてもらおうかな」


その頃まだ、長閑だった祖父の言葉を僕は忘れないし最期の願いが叶ったことは本当によかったと思っている。誰に認めてもらえなくても。


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