鈴歌ルート
ファースト・コンタクト
私たちが出会ったのは、穏やかな春の日のことだったな。桜の花びらが風に舞う中、四月生まれだという女の子はにっこり笑って、私に右手を差し伸べた。
『隣に越してきた川岸です。
『よろしくね、すずかちゃん!』
『……』
私は、頑として親の背後から動かなかった。警戒心か、気が乗らなかったのか。理由は色々あるが、一番強かったのは他者への不信感だ。
うまく社会へ馴染むには、時に自分の信念を曲げてまで他者の機嫌を取る必要があるという。私は相手と良好な関係を築くうえで不可欠な、この「世辞」と「妥協」が幼い頃から嫌いだった。
なぜ、他人のために自分の心を砕く? そうやってでも護りたいものがこの世にあるのか? 少なくとも、私の人生にはそんなもの存在しない。
護るべきは自分だ。自分の心を護るためなら、私は歯に
『うわぁぁぁん! せんせー、すずかがおれに〝バカ〟っていった!』
『またあなた? どうしてお友達にそんなこと言うの』
『かんちがいするな。おまえなんて、ともだちじゃない』
『
私と言葉を交わせばたいてい相手は怒り、「失望した」と言って離れていく。勝手に近寄ってきておいて、勝手に傷つき泣きわめく。
挙句、言うに困って私を問題児扱いするなど自分勝手が過ぎると思わないか? 私より長く生きているというだけで偉ぶり、意のままにならないと機嫌を損ねる馬鹿な大人のなんと多いことか。
私はお前たちの
『おまえがカエルをなげたのがわるい。わたしがこわがるとでもおもったか』
『なんで……なんで、こわくないんだよ。おんなのくせに!』
『おんなはカエルをこわがる。そんなこと、だれがきめた? みんながみんな、おなじだとおもうな』
『あ、あ……』
『だからおまえはバカなんだ。カエルにあやまれ。いますぐ、あやまれ』
正直であることは美徳なんだろう? ならば、私はそうするまで。無様に大人へ泣きつくこの少年と私の共通点は、同じ年齢の子どもということだけだ。
嘘をつくのはよくないこと? ならば、私はそうしない。ほかの女子に試して味を占め、同じ手口で嫌がらせを試みる愚かさを指摘して何が悪い。
生き物には優しくするんだったな。ならばお前は、自分の行いを反省すべきだ。カエルにも痛覚はある。お前も同じ目に遭わされたらどう思う?
『いい加減にしなさい。いつまで意地を張ってるの』
『わたしはほんとうのことをいったまでだ』
『保育園児が理詰めで論破、ねえ。親御さんから〝ギフテッドです〟と聞かされてはいたけど、すでに筋の通った論理的思考ができるとは驚いたよ』
保育園でも友達を作らず、集団生活にも馴染もうとしなかった私はある日、同級生とトラブルを起こし退園の危機に直面した。
私は大人が嫌いだ。大人になんてなりたくない。だが、大人の言うことを聞けば社会でうまくやっていけるとみんなが言うから、そのとおりにしてきただけだ。
それなのに――どうして、私は「いい子」になれない?
『鈴歌ちゃんの思考特性は、普通の子とは大きく異なる。彼女は善悪の別なく、主観的な視点から見た事実をそのまま受け止める。自分で見聞きして下した判断こそが最適解だと思っているんだ』
『もう限界です。この子の面倒は見きれません!』
『いつの世も出る
『もっと深刻に考えてください園長!』
『深刻に考えているとも。だから今、この時をもって鈴歌ちゃんは私が預かる。見ていなさい、君たちが手を焼くこの子を自慢の卒園生に育て上げてみせるとも』
『正気ですか? さすがに園長先生でもこれは……』
『それにね、こういう子はちょっとしたきっかけで変わることがある』
白髪交じりの穏和なおじいさんといった
栗毛のツインテールに水色のスモック、
『おや、澪ちゃん。どうしたんだい?』
『えんちょーせんせい。すずかちゃんは、あたしのマネをしたの』
『そうか。どんなことを真似したのかな?』
『××くんがカエルをなげてきたから、あたし、おこったの。おこったら、せんせい、〝よくいえたね〟って、ほめてくれたの』
澪の証言に、担任は驚いた表情を浮かべた。それは悪いことをする仲間、自分より力で勝る相手に注意した勇気を褒めたものであったのだろう。
だが、離れたところで一部始終を聞いていた私は、それ自体を正しい行為と認識した。人の悪事を
認められたい。称賛されたい。もっと
そうしていつか、誰も文句のつけようがない「天才」になれば、自分を偽らなくとも生きていけるはずだから――。
『すずかちゃんは、どうしておこられてるの?』
『園長先生は怒っていないよ。鈴歌ちゃんとお話がしたいんだ』
『そうなの?』
『そうだよ。みんなと仲良くなるにはどうしようか? ってね』
『ふーん。そっかぁ』
海沿いの街から引っ越してきたという隣人に初めて会った日、私は握手を拒否した。だが、澪は私の反応など気にも留めず、同じ保育園に来て間もなく持ち前の明るさであっという間に人の輪へ溶け込んだ。
転園直後の五月には運動会の選手宣誓という大役を務め上げ、一目置かれる優等生の評価を確固たるものにした。澪は手のかからない天才だったのだ。
『さ、澪ちゃんは教室に戻ろう。先生はもう少しお話が……』
『せんせいの、ウソつき』
『――え?』
『あたしはほめて、すずかちゃんはおこる。そういうの〝さべつ〟っていうんだよ』
澪は私にとって、まさに理想の「いい子」だった。「いい子」になることは私の人生における最初の目標であり、社会からあぶれた私の憧れだった。
お前が私の人生に現れてから、私はさらにひねくれた。
どこで顔を合わせようが、金輪際話はしない。よほど鈍い人間でなければ嫌われている、避けられていると察するだろう。
『せんせいなんて、きらい。だいっきらい!』
『な、何を言ってるの? 園長先生も何とかおっしゃってください!』
『すずかちゃんにあやまれ。いますぐ、あやまれ!』
それなのに、澪は私を弁護した。自分を嫌うアンチの肩を持った。その瞬間、この私に劣等感という名の屈辱を与えた唯一の人物、ついさっきまでいけ好かないと思っていた横顔が、やけに頼もしく見えたんだ。
他人に興味のなかった私が、初めて自分から近づきたいと思った。澪のことをもっと知りたいと思った。あの時の担任保育士の顔ときたら、傑作だったぞ。
園長先生が中庭に通じるガラス戸を開けた。澪は目を輝かせ、私の手を取って『いこう、すずかちゃん!』と強引に外へ連れ出す。
園庭に植えられている桜の花びらが風に舞った。そうだ。あの日、あの瞬間から、灰色だった私の世界は鮮やかに色づき始めたんだ。
『……よかったのか?』
『なにが?』
『わたしのみかたをしたら、きらわれるぞ。みおは、それでいいのか?』
夕方、ともに医師である私の両親から「急患が入ったから迎えに行けない」と園に電話があった。連絡を受けた澪の親が迎えに来てくれるまで、私は誰もいなくなった夕暮れの教室に居残り、澪と二人で話をした。
不思議なことに、彼女なら私のことを理解できずとも無条件で受け入れてくれそうな気がして、誰にも言えずにいた胸の内を明かすことができた。
本来ならまず礼を言うべきだったのに、我ながら素直じゃなかったな。
『しーらない。だって、すずかちゃん、カッコよかったもん』
『かっこよかった? わたしが?』
『うん。せんせいよりも、ずーっと!』
他人から嫌われようが、私の味方をする。そう豪語する理由が「格好よかったから」だと? 馬鹿馬鹿しい。お前の知能は年齢相応かそれ以下だな。
だが、その馬鹿げた理由こそが澪らしい答えだと私は感じた。たとえ自らの利にならなくても、自分の信念や琴線に触れたものに従う。自分という存在を貫き通す。
その在り方に、私は理想を見出した。私もそうありたいと思ったんだ。
『ねえ、すずかちゃん』
『なんだ』
『あたしたち、ともだちになろうよ』
あれからお互い少しだけ大人になって、自然と澪をねたむことはなくなった。
今は逆に、私のほうがテストのたびに「脳みそ半分よこしやがれください!」と言われているが、私の想いは変わっていない。
『しかたないな。とくべつだぞ』
『えへへ、やったぁ!』
『……なーんだ、心配して損した。いつの間にか仲良くなっちゃってまあ』
『ええ。二人はきっといいコンビになりますよ、川岸さん』
澪。誰が何と言おうが、お前は私の――自慢の幼なじみで、親友だ。
いつか敵が現れたら、私も一緒に戦おう。つらい時は肩を貸すから、共に歩もう。
「あたしは〝神〟になんてなりたくなかった!」
「なら、ともに終わらせよう。この物語を、私たちの手で」
だから、泣くな。
かつて天才だったあなたには、この
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