第48話 月光X

 幼子のように泣く妙子を見て、結衣子は微笑んだように見えた。

 結衣子はゆっくりと立ち上がった。


「いつかこんな日が来ると思ってました」


 彼女は、どこか晴々とした表情を浮かべていた。僕はそれを見て、逆に胸が痛んだ。

 なぜだろうと自問する。


 結衣子は、急にゆらりと身体を翻すと、車の後方に回り込んだ。

 ドアの開閉音がして、次いで、水のはねる音がした。


 僕と庭さんが顔を見合わせる。

 再び姿を現した彼女の姿を見て言葉を失くした。彼女はずぶ濡れだった。

 全身からポタポタと水が垂れている。

 生ぬるい風が吹いた時、ツンと鼻を突く匂いがした。水ではない。

 僕は真っ青になった。

 ガソリンの匂いだ。


 彼女は右手に、湯たんぽほどの大きさの缶を握っていた。どうやら、ガソリンの携行缶のようだった。


「庭さん……」


「まずいですね……」声が小さく震えている。


「あなた方が、どこの誰だかは存じ上げません……。だけど私にとっては、それはもう、どうでもいいことなのです」


「どうして僕らのような人間に秘密を話すのです?」という、庭さんのさっきの質問の答えのようだった。

 彼女は、前髪からポタポタとガソリンを垂らしながらそう言った。


「あなたがしなくちゃいけない贖罪は、こういうことじゃないでしょう!」僕は思わず叫んでしまった。


「森沢くん! 黙って!」庭さんが遮った。「し、重村さん、どうか、落ち着いてください……」


 彼女は、虚脱したように、携行缶を地面に投げ捨てる。

 ガランと大きな音と立てて、缶は結衣子と庭さんの間に転がった。


 砂時計の最後の一粒が落ちたような気がしていました――。


 僕はハッと結衣子の顔を見る。

 ようやく彼女の言葉の意味が理解できた。真意が分かった。

 砂時計の砂は、そのまま彼女の命だ。やはり結衣子は自殺するつもりだった。


 右手を見ると彼女はライターを握っていた。

 ゆっくりそれを掲げる。


「重村さん、重村さん、落ち着いてください……!」庭さんが再び声を上げる。同時に体勢を低くし、ゆっくりと引き寄せるようにして携行缶を拾い上げた。

 僕はどうしたらいいのか、動けずにいた。全身が硬直していた。

 彼女の親指がライターの着火部分に触れた瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。


 ヤバイ――。

 ただ、それしか頭の中に思い浮かばない。


「お姉ちゃん……、本当にごめんなさい……」結衣子はそう呟いて、姉に向き直った。


「待ってください!」突如庭さんが大声を張り上げた。


 手にした携行缶を振り上げると、キャップを外し、自分の身体に残っていたガソリンを浴びせ始めた。


「庭さん……! 馬鹿っ!」思わず叫んだ。「何てことを……!」


 目の前で信じられないことが起きていた。

 庭さんの体からガソリンが滴り落ちる。結衣子と同じように。


 結衣子の瞳が揺れていた。


「あ、あなたが今、火を点けるなら、僕も一緒に燃えることになってしまいます」庭さんが苦々しく笑う。


 ペッと唾を吐く。口の中に入ったらしい。

 結衣子に火を点けさせないがための牽制なのだろう。だけど、あまりに危険すぎる。


「結衣子さん……」庭さんの声が夜の遍路道に響く。


「僕は小説を書くことを生業にしている人間です」


 庭さんの声は静かだった。


「人生には、思いもよらない出来事、展開があるものです。それが小説であれ、現実であれ……」


 庭さんはしばらく黙り込んだ。

 それからポンと手を叩く。


「いやぁ、参りましたね……。気の利いたことを述べようと思ったんですが、こんな時は何も思いつかないもんですね」苦笑いを浮かべる。


 結衣子はその言葉に反応することなく、手元のライターを見つめていた。しかし、その手がかすかに震え、次の瞬間、ライターが彼女の指からこぼれ落ちた。

 自分から手放したのか、それとも誤って落としたのかは分からなかった。


 ライターはコンコンと音を立てて、妙子の足元まで転がっていった。

 妙子は無表情のままそれを拾う。

 赤ん坊を抱いたまま、ゆっくりと結衣子に近づいた。

 まるで何かに導かれるかのようだった。


 ぎょっとしたのは、ライターをそのまま構えたからだ。

 夜風が吹いて彼女の髪をたなびかせた時、横顔が一瞬垣間見えた。

 何か小さく唇を動かしたのが見て取れた。

 そして何の躊躇もなく、まるで一連の動作であるかのように、指でライターを擦った。

 火は一瞬で結衣子の白衣を伝い、爆発するように黒煙を吐いて大きな炎のうねりとなった。


「うわあああーーーー!」


 僕は叫び声を上げると、ほとんど反射的に庭さんに体当たりをくらわせた。

 全身の力を振り絞って、燃え上がる結衣子から庭さんを引き離す。火の粉が散っただけで終わりだ。庭さんごと燃え上がるだろう。

 今この腕が引き千切れても構わない。この人を火から遠ざけなければ。


「庭さぁーーん!」僕は叫んだ。


「も、森沢くん……」


 庭さんは無事だった。

 激しい勢いで二人、地面に倒れ込んだ。僕は庭さんを強く抱えたまま、必死に息を整える。


「ああ……」庭さんは目の前の光景に言葉を失っていた。


 オレンジ色の炎が結衣子を狂ったように包み込んでいる。

 驚いたことに妙子は、立ったまま炎にまかれる妹を包容していた。

 みるみるうちに炎は妙子の白衣に引火し、炎は勢いを増した。

 燃え盛る炎の中で、二人の姿がゆらめいていた。


「はあ……っ! はあ……っ!」呼吸がうまくできない。


 助けなければ……、でもどうやって……!

 周囲には何もない。

 海は遠すぎる。水を汲む道具もない。

 絶望的だった。何もかも、間に合わない。


「ううーー……っ!」あまりの恐ろしさにガチガチと歯の根が鳴る。


 二人の遍路姿が炎に包まれている。

 一体何が起こっている。どうして、妙子は火を点けた。


 現実感が薄れていくのを感じた。炎の中で二人が抱き合っている。


 ありがとう――。


 妙子はライターで火を点ける直前、そう口を動かした気がする。

 ありがとうだって? どういう意味だ。


 だけど――。

 僕は思う。妙子に赤ん坊人形を渡した瞬間、彼女の中で何かが変わったように感じた。

 彼女は多分、自分を取り戻したのだろう。


 炎の二人がゆらゆらと体を揺らす。

 ヒタ。

 どちらかが一歩足を踏み出した。

 お互い肩を抱き合って、もう一歩。

 ヒタ。

 アスファルトを踏みしめる足音。

 ヒタ――。

 ヒタ ヒタ ヒタ ヒタ……。

 炎に巻かれながら、二人の遍路が、寄り添って歩く。


「森沢くん、か、彼女たちは……!」


「はあ……、はあ……っ!」


 僕は言葉を失くし、ただ息を荒げるだけだった。目の前で起こっている光景が現実とは思えない。

 二人の遍路の姿が、炎に包まれたまま遠ざかっていく。

 人間は焼かれたままでも、こんなに歩くことができるのか。

 彼女たちはお互いを支え合うようにして、一歩一歩、遍路道を進んだ。


 やがて二人は立ったまま動きを止める。

 炎が消えていく中、二つの人影が黒く浮かび上がる。


 彼女らは、一体どこに向かおうとしていたのだろう。

 二体の彫像のように、夜空を見上げていた。


 僕と庭さんは呆然とその光景を見ていた。

 いつの間にかあたりは月明かりに包まれていた。


 黒く焦げた二人の姿が、月光に照らし出される。その姿は痛ましくも、なぜか神々しささえ感じさせた。


 静寂が辺りを包む。

 遠く、打ち寄せる波の音だけが聞こえる。


 時間が止まったように感じられた。

 どこか幻想的な光景に見とれていた。


「森沢くん……、あれを」


 荒い息を吐く庭さんが、二人の背中を指差す。


「あれを、見てください……。


「…………え?」思わず呻き声のような声が漏れた。「ああっ……!」


 どうして妙子が、遍路Xなどと呼ばれているのか疑問だった。

 X(エックス)は一体何を意味しているのだろう。ずっと気になっていた。

 誰が最初に言い出したのだろうか。時子おばあさんだろうか。

 その答えが目の前にあった。


「あれは……」


 妙子と結衣子の影は、ちょうど潰れたパチンコ店の前にあった。

 月光が、二つの影と、かつて賑わったであろう廃墟を照らす。


 木々に埋もれた看板が満月の光を浴びてあらわとなる。

 その店舗の名が「シーサイドX」だと、この時僕は初めて知る。


 二つの人影は看板の下にあった。

 店名の最後のイニシャル「X」が女の頭上に浮かんでいた。焼け焦げた白衣が風にわずかにはためく。


「遍路X……」僕はその光景に見入っていた。


「時子お婆さんが見たのは……、もしかしたら、これだったのかもしれません……」庭さんが呻くように呟く。


 白衣をはためかせて歩く妙子の姿と、パチンコ店のX――。

 月光の映える夜に、それが結びついたのだろうか。

 あるいは、語って聞かせる内に「遍路」と「シーサイドX」が自然と融合したのかもしれない。


 僕は呆然とその姿を見ていた。

 月明かりに染まる焼けた遍路の姿に、言葉を失っていた。


 父の敬三がやってきたのはそれから一時間後だった。

 彼は、何が起こったのか説明しようとする僕らのことを、拒絶するように手を振り、無言で追い払った。

 何が起こったのか、すでに察しているようだった。


 もとより結衣子から言付けられていたのか、二人の娘の亡骸を前にしても、彼が取り乱すことはなかった。

 ただ、二つの遺体の前でひざまずき、項垂うなだれた。


 父の悲しみに満ちた背中が、月明かりに浮かび上がっていた。


 僕と庭さんの四国旅は終わった。

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