第27話 作家の頼み

 どれくらい時間が経ったろうか。作家が重い沈黙を破った。


「僕がここに来たのは、君に頼みたいことがあったからなんです」


 僕は顔を上げないまま話を聞いていた。


「疑いようのないことは、キヨくんは確実に誰か『ハンニン』を見たということです。そして『ハンニン ミッケ』と森沢くんに伝えました。不幸は、そのあと偶然にも黒木と遭遇してしまったことです」


 正座する庭さんの太ももが見える。両こぶしが固く握られズボンにしわを作っている。


「森沢くん、僕と一緒にもう一度四国に行ってくれませんか」


「え……」ゆっくり顔を上げる。


「言ったように、警察にとってこの事件はすでに終わっています。キヨくんを殺害した犯人はすでに捕まっていますから……。

 だけど警察は、キヨくんが『ハンニン』を『ミッケ』たことを知りません。キヨくんは一体誰を『ハンニン』と認識したのか。僕はそれを引き継ぎたいのです。キヨくんに対する責務を果たしたいのです」


「責務……?」どういう意味だろう。言葉が頭の中に反響する。責務ってなんだろうか。


「返事は今じゃなくていいです。考えてもらえませんか?」


「どうして会ったことのないキヨにそこまでするんですか……?」


 庭さんの喉が小さく動き、言葉を飲み込むような仕草を見せた。

 しばらく考え込んだあと、決意を固めたように口を開いた。


「彼の無念を晴らしたいと言えば聞こえはいいでしょうが……、結局のところ、自分のためです……。キヨくんの死に、僕にも責任があるかと思うと、どうしても耐えられないのです。僕なりの方法で、贖罪を果たしたいのですよ」


 視線をローテーブルに固定したまま話す。


「理由はまだあります。キヨくんに対する純粋な興味です……。本当に、歩き方だけで誰かを特定することなんて可能なんでしょうか。正直、信じられないけれど……、もしそれが本当なら、彼はとんでもない才能の持ち主です。彼が何を見たのか知りたいのです。僕は真相が知りたい」


 庭さんは、視線を上げて僕を見た。目の奥に揺れるのは、焦りとも好奇心ともつかない奇妙な光だった。


「例えその先に破滅が待っていたとしても……」庭さんは静かに言葉を続けた。「僕はそう思っています」


 僕の旅は、まだ終わってないのだろうか――。


 葬儀に参加しても、どこか別世界のように思っていた。キヨはまだ四国で遍路を歩いているような気がしていた。

 魂だけが、いまだを四国をさまよっている。そんな思いにとらわれていた。


 僕の中で、一つ大きな後悔があった。

『ハンニン ミッケ』のポケベルを受け取って引き返すことを決めた時、タクシーを使わなかったことだ。

 最初に二人で「絶対にタクシーや電車などの交通機関は使わない」と決めてはいたが、それを破る発想がまるでなかった。

 タクシーを捕まえていたら、黒木よりも先にキヨと合流できたかもしれない。

 たらればに過ぎないことは分かっている。だけど砂を噛むような苦い堂々巡りを続けている。


 僕は再び、キヨの残像を手探りしながら、生きているのか死んでいるのか分からない生活を続けるのだろうか。

 それは嫌だった。虚無感しか残らない。


 庭さんは、腹を割って正直に話しているのだろう。だから「自分のため」とはっきり言った。

 僕は、どうだろう。僕は、僕なりにキヨと向き合わなければならないのではないか。

 自分のために。


 葬儀の時、彼の伯父が僕に向かって投げた言葉。


――どうして見殺しにした。

――こいつだけがおめおめと生きて帰って。


 その言葉は今でも胸に深々と刺さったままでいる。

 どうして僕は生きている?

 その答えを持たないまま、苦しんでいた。

 答えがいる。


「分かりました」僕は庭さんの目を見た。


「庭さん、でもそれは勝手な言い分です」


 作家は「えっ」と驚いたような顔をする。


「自分だけが、責任を背負うのはズルいと思います。キヨは僕の友人です。僕もその責任を背負いたいと思います」


 後悔。キヨに対する思い。そして前に進みたいという気持ち。それらが混ざり合っていた。

 庭さんは、僕の目を見つめながらゆっくり頷く。

 その表情は、どこか安堵しているように見えた。


 僕は、四国から帰ったきりのリュックサックに目を向ける。

 キヨから預かったお守りが、くくられたままだった。


 それはまるで、使われずに残った往復切符の半券のように見えた。

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