第43話 慶長の役

 文禄の役後、朝鮮水軍は日本軍の出没に対応するため閑山島に本営を前進させて海峡対岸の巨済島を監視する位置にいた。和平交渉が破綻し、慶長の役の為に釜山付近に渡海・集結中の日本軍を攻撃するように命令された朝鮮水軍の司令官(三道水軍統制使)李舜臣は水軍単独での侵攻攻撃にリスクを感じて消極的であり、党争の影響や元均の讒言もあり、断罪され地位を剥奪された上に白衣従軍(一兵卒となって罪償うために従軍すること)を命ぜられた。李舜臣に代わって三道水軍統制使となったのは元均であったが、彼もまた攻撃指令に対して消極的であった。


 6月18日、ついに都体察使の李元翼の命令により元均は艦隊を出撃させた。しかし6月19日、安骨浦と加徳島へ侵攻した艦隊が日本軍と海戦をおこない、幹部が負傷するなどの被害を出して一旦閑山島まで後退し。元均の艦隊は7月初旬に命令通り艦隊を二分して再度出撃を行い、慶長2(1597年)7月7日、給水のため加徳島に上陸したところを高橋統増・筑紫広門軍の攻撃を受け敗走した。これをみた都元帥(朝鮮軍の最高司令官)権慄は元均を厳しく叱責して杖罰に処したと言われている。


 7月14日、再三閑山島の本営を出撃し、15日夜半には巨済島と漆川島(現・七川島)の間にある漆川梁に停泊していた。この情報を得た日本軍は水陸から挟撃する作戦をたてた。16日の明け方より藤堂高虎らの日本水軍は海上から攻撃し、陸上部隊がこれを援護した。戦いは日本水軍が朝鮮水軍を圧倒し、数千人を討ち取り、その他大勢を海へ追い落とし、160余隻を捕獲、津々浦々15~16里にわたって海賊船を悉く焼却した(『島津家文書』)。朝鮮水軍の主将のうち元均、李億祺、崔湖は戦死し、一人裴楔のみが逃走、朝鮮水軍は壊滅的打撃を受けた。この戦いに勝利した日本軍は陸海から全羅道に向かって進撃してゆく。


 

日本軍の編成

水軍

藤堂高虎

脇坂安治

加藤嘉明

菅達長


陸上部隊

島津義弘

小西行長



朝鮮水軍の編成

元均 - 三道水軍統制使・全羅左水使(戦死)

裴楔 - 慶尚右水使(逃走)

李億祺 - 全羅右水使(戦死)

崔湖 - 忠清水使(戦死)

**慶長2年(1597年)**


### 磯城の海


静かな波間に浮かぶ船の艫(おもて)から、艦長の見張りの声が響いた。「来たぞ、朝鮮水軍の旗が見える!」


 戦の雲行きが早くも怪しくなり、朝鮮水軍の大将、元均(げんきん)率いる艦隊が近づく。船上の武将たちは、やがて来る戦闘に備えて武具を整え、気を引き締めた。


「やがて、漆川梁海戦が始まる。兵たち、心を一つにせよ!」高虎が、部下たちに声をかけた。その言葉に応え、兵たちは頷き、甲高い音を立てて弓や槍を手に取る。


### 漆川梁海戦


 海上での激闘が繰り広げられ、火薬の煙が漂う中、朝鮮水軍の艦隊は次々に沈められていった。高虎は見事な連携で敵艦隊を圧倒し、ついに元均の艦を撃沈。戦が終わりを迎えると、戦場には朝鮮水軍の残骸が漂っていた。


「これが我らの力だ!」磯城の武将たちは歓声を上げ、勝利を喜び合った。


### 南原城の戦い

文禄の役後、日本と明の間で続けられた和平交渉が決裂すると豊臣秀吉は再征を命じた。慶長2年(1597年)中の任務として、「全羅道を悉く成敗し、さらに忠清道にも出撃すべきこと」、「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」が命じられていた。


 慶長の役が始まり7月に日本水軍が漆川梁海戦で朝鮮水軍に壊滅的打撃を与えると、日本軍は右軍、左軍、水軍に分かれ水陸から全羅道を目指して進撃を開始する。


 進撃路上の慶尚道と全羅道の道境付近では南原城と黄石山城が行く手を扼していた。そこで、日本の右軍は黄石山城を、左軍と水軍合計56800は水陸を併進し南原城を目指した。


これに対し、明軍では総兵・楊元を南原城に派遣していた。楊元は到着すると、城の防備強化に取り組み、城壁を一丈ばかり増築し、城外の羊馬墻に数多くの銃眼を穿ち、城門に大砲三門ほどを据付け、濠を一・二丈掘って深くした。


日本軍が水陸から襲来するとの報が急を告げると、城中の者はびくびくとして騒ぎ立て、人民は逃散し、ただ総兵・楊元の率いる遼東の騎兵3000が城内にいるばかりであった。


南原城には明の総兵・楊元の他、中軍・李新芳らが、約3000人の明兵を擁して守りを固め、これに朝鮮軍の全羅兵使・李福男、南原府使・任鉉、助防将・金敬老、光陽県監・李春元、唐将接伴使・鄭期遠らが約1000-3000[2]人の朝鮮兵を率いて加わった。


8月12日、日本軍は南原に到着すると、ここを包囲下に置き、戦闘が開始される。


南原城包囲軍配置


南面 宇喜多秀家、藤堂高虎、太田一吉

西面 小西行長、宗義智、脇坂安治、竹中重利

北面 加藤嘉明、島津義弘

東面 蜂須賀家政、毛利吉成、生駒一正


 戦闘は先ず射撃戦で始まり、日本軍は散兵を城に接近させ火縄銃を撃ちかける。これに朝鮮兵は勝字銃筒という原始的な火器で応戦するが命中しなかった。一方、日本軍の放った火縄銃の弾丸はしばしば城を守る朝鮮兵に命中した。


 この時、明の遊撃・陳愚衷が3000の兵を率いて全州におり、南原守備軍は毎日のように来援を要請したが、陳愚衷は遂に救援しなかった。


 攻城4日目、日本軍は攻城用の高櫓から城内を猛射し、その間に濠を埋め、長梯子をかけて城壁を登り城内に突入する。城内からは火の手があがり、もはや落城が不可避となると、明兵は脱出を計ったが、城は既に日本軍の重囲下にあり、明兵は次々と刃を受けて討ち取られた。このとき脱出できた者はほとんどいなかったが、楊元だけは僅かな家丁のみを伴い身一つで落ち延びる。明軍では李新芳・蒋表・毛承先らの副将が戦死、朝鮮軍では李福男(全羅兵使)・任鉉(南原府使)・金敬老(助防将)・鄭期遠(接伴使)・申浩(別将)・李元春(求礼県監)・馬応房(鎮安県監)・呉応鼎(防禦使)・李徳恢(判官)・黄大中(義兵指揮官)ら諸将が全員戦死し、ここに南原城は陥った。明・朝鮮軍は5000人が戦死した。

 

 南原城での戦いは激烈を極めた。敵の攻撃に耐えながらも、磯城の軍は巧妙な戦術で反撃し、城を守り抜いた。


「守りは固いぞ。少しでも隙があれば、すぐに反撃だ!」と命じる高虎の声が、戦場の轟音にかき消される中で響いた。


### 鳴梁海戦


 慶長2年(1597年)8月下旬、左軍に属した船手衆の藤堂高虎(兵数2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅達長(200)と目付の毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれに対するため出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ったため、追撃することができないままに碧波津に帰った。そもそも朝鮮水軍では大船が十二、三隻があるだけであり、戦力的に劣勢だったため、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。鳴梁渡は珍島と花源半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所である。


 藤堂高虎らは敵の大船(本体)が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち関船(中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻)だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻があったとされている。)で迎え撃つ。当初他の船は退いてしまい、一時は李舜臣の船一隻だけが立ちはだかった。帥字旗を掲げる李舜臣の旗艦は、海の中にそびえたつ城のように見えたという。旗艦の奮闘ぶりは朝鮮水軍を勇気づけ、僚船が次々と戦線に復帰した。欧米の歴史学者の認識も韓国の見解に近い。日本水軍は押し流され互いに衝突したり、密集しているところを朝鮮水軍の集中砲火を浴びた。日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの甚大な損害を受けた。毛利高政も海に落ちたが、藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由に救助された。陸上の戦いではポルトガルより伝来していた火縄銃のおかげで有利な戦いを展開した日本軍であったが、水上の戦いは必ずしもそうではなかった。日本船は船底がV字型をしており速度が速く内海を航行するのに適していたが、波の荒い外洋には不向きであった。朝鮮船は船底が平たく、海が荒れても安定していたが松の厚板をつかっていたこともあり速度が遅かった。装備の面でも朝鮮水軍は船に大砲を搭載していたが、文禄の役に当初日本水軍にはなく一方的に砲撃を受けることがあったがやがて大型船には大砲を搭載した。さらに戦法の面でも日本水軍は敵船に乗り移っての白兵戦が得意であった。それに対して朝鮮水軍は近代的な艦隊運動と砲弾より火矢をつめた砲撃戦を主とした。この時代は明治維新の時期と異なり、両国の国力や技術力に大差がなかったのである。


 この海戦における朝鮮水軍の損害は軽微であったとされるが、結局のところ衆寡敵せず、夕方になると急速に退却を開始し、その日の内に唐笥島(新安郡岩泰面)まで後退している。日本水軍は水路に不案内なため、帆を上げて戦場を離脱する朝鮮水軍を追撃することは行わなかったが、翌17日には藤堂高虎・脇坂安治らが前日の戦場を見回り、敵船の皆無を確認する。実はこの時点で、同日中に朝鮮水軍ははるか遠く於外島(新安郡智島邑)まで退却していた。21日には170km後方の古郡山島まで退却しそのまま日本水軍が引き揚げるまでそこに身を潜めていた。 これにより朝鮮水軍の撤退後、日本水軍は朝鮮水軍が陣を構えていた右水営を占領し鳴梁海峡を制圧した。

 鳴梁海戦では、海の激流と暴風雨の中、磯城の艦隊は再び朝鮮水軍と対峙した。波濤に翻弄されながらも、磯城の艦隊は一丸となって戦い抜き、ついには勝利を収めた。


「力を合わせてこそ、勝利は掴める。敵を討ち果たし、我が旗を高く掲げよ!」高虎の言葉に、兵たちは力強く応えた。


### 帰国後の栄誉


 戦いを終えた磯城の艦隊は、凱旋帰国の際に数々の栄誉を受け、大洲城の領地を加増されて8万石となった。磯城は、その後、板島丸串城を大規模に改修し、完成後に宇和島城と改名した。


また、朝鮮の官僚、姜沆(きょうこう)を捕虜にし、日本へ移送するという功績も挙げた。


「これぞ、戦の結果だ。宇和島城をもって、新たな時代を築くのだ!」と、高虎は誇らしげに述べた。


戦の後、磯城の名はまた新たな伝説を作り上げることとなり、歴史にその名を刻むことになった。


 その時代背景と戦闘のスケールに合うキャストを考えると、以下のような配役が適切かもしれません。


### 演技派の俳優を中心に:


**日本側キャスト**


1. **藤堂高虎** - **真田広之**

知的で冷静な指揮官としての役割に適している。


2. **加藤嘉明** - **尾上松也**

精悍な戦士で、戦場での活躍が期待できる。


3. **脇坂安治** - **狩野英孝**

繊細な感情表現ができる俳優として適任。


4. **島津義弘** - **大沢たかお**

堅実で強靭な武将としてのイメージが合う。


5. **小西行長** - **吉川晃司**

知略に長けたキャラクターにぴったりの俳優。


**朝鮮側キャスト**


1. **元均** - **イ・ビョンホン**

強い意志と重厚な演技が求められる役柄。


2. **李舜臣** - **ソン・ジュンギ**

勇敢で義理堅いキャラクターに適した俳優。


3. **裴楔** - **チョン・ウソン**

落ち着いた演技と力強さが必要。


4. **李億祺** - **キム・スヒョン**

経験豊富な将軍としての深みが出せる俳優。


5. **崔湖** - **ハン・イェスル**

ストイックで力強い演技ができる女優としても評価が高い。


### サポートキャスト


- **権慄(朝鮮軍の最高司令官)** - **オム・テグ**

短い登場ながらも圧倒的な存在感を持つ俳優。


- **楊元(明軍の総兵)** - **ユ・ジテ**

軍の指揮官としての重圧感を演じるのに適任。


これらのキャストは、戦争の激しさと複雑さを表現するのに適しており、それぞれのキャラクターに必要な深みと信頼感を持っています。

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