第35話 聚楽第
1585年6月、豊臣秀吉が病で出陣できなかったことから、その代わりとして豊臣秀長が四国攻めの総大将に任じられた。総勢10万を超える大軍を率い、秀長は自ら阿波国へ進軍した。彼は秀吉の右腕としてこれまで数々の戦場で手腕を発揮してきたが、今回は四国の雄、長宗我部元親との戦いであった。
四国攻めは当初順調に進むかと思われたが、長宗我部氏の抵抗は激しかった。長宗我部の勢力が守る阿波一帯は険しい地形が多く、攻め入る兵たちにとっては苦しい戦いであった。さらに、秀吉が味方につけていた毛利氏と宇喜多氏の合同軍も、思ったほどのスピードで侵攻できず、戦局は膠着状態に陥りつつあった。
この状況を心配した秀吉は、さらなる援軍を送ることを申し出た。しかし、秀長はそれを断る決断を下す。彼は自ら秀吉に書状を送り、強固な意思を伝えた。
**秀長の書状**:
「御心配は誠に痛み入りますが、御援軍の申し出、もったいなき次第にございます。されど、この四国の地においても御名を高からしむるため、此度の戦、我が力を尽くし、必ず勝利を得て御期待に応えん所存にございます。」
秀長の言葉通り、戦況は次第に動き始める。彼は一宮城を見事に落とし、長宗我部元親を降伏に追い込んだ。この成功により、彼は四国の主要部分を制圧し、四国全土が豊臣家の支配下に入ることとなった。
この勝利の功績を称えられ、同年閏8月18日、秀長は紀伊国・河内国、さらに大和国を加増され、合計100万石の領地を授けられることとなった。彼は新たに大和国の郡山城に入城し、「大和大納言」として名を馳せることとなった。しかし、実際の石高は73万4千石であったとされ、『文禄検地帳』にその記録が残っている。
秀長が治める紀伊・大和・河内の三国は、寺社勢力が強く、決して治めやすい土地ではなかった。しかし、秀長は内政にも辣腕を振るい、諸問題を次々と解決していった。時に苛烈な手段も辞さず、盗賊追補の命を出し(廊坊家文書)、検地を実施し(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟を定め(法隆寺文書)、厳しい統治を行った。
また、内政だけでなく文化政策にも積極的に取り組み、大和では赤膚焼(あかはだやき)という陶器の開窯を促進し、地元経済の発展にも寄与した。このような手腕によって、大和・紀伊・河内の統治は安定し、秀長はその名を高めていった。
この頃、秀長は豊臣姓を与えられ、正式に豊臣一門としての地位を確立した。彼は従二位、大納言の官位を授けられ、「大和大納言」として、その名を天下に知らしめることとなったのである。
豊臣家の一翼を担い、四国を平定し、大和の統治を成功させた秀長の名は、この時代の豊臣政権においても重要な位置を占め続けた。彼の統治により、大和地方の安定と繁栄は長く続いたと言われている。
天正14年(1586年)、関白となった豊臣秀吉は、徳川家康が上洛する際に住まう屋敷を京都の聚楽第内に設けるよう、弟の豊臣秀長に命じた。秀長は作事奉行として信頼の厚い藤堂高虎を指名し、家康のための屋敷造りを任せた。
高虎は秀長から渡された設計図を入念に確認した。見た目には豪華で立派な設計であったが、彼の目にはある致命的な欠陥が映った。それは、屋敷の警備体制に関わる問題だった。高虎はかつて数々の戦場で多くの城を築き、守りを固めてきた経験があり、その経験からすると、設計図通りに建てれば、もし敵襲があった場合に家康を守りきれない可能性があると判断した。
高虎は設計図に沿って屋敷を建てるのではなく、独自の判断で設計を変更し、警備が容易で、戦に備えた堅牢な屋敷を築き上げた。この設計変更にかかる費用はすべて高虎の私財から賄った。彼は秀長や秀吉に相談することなく、自らの決断で全てを進めていた。
屋敷が完成し、家康が上洛すると、早速その豪奢な住居に迎え入れられた。家康は細部にわたる配慮に気づき、設計図にあったものとは異なる点をすぐに察知した。そして、引見の場を設け、高虎を呼び寄せ、変更の理由を問いただした。
**家康**: 「高虎、この屋敷は確かに素晴らしい。しかし、設計図とは少々異なっておるな。何故、そのように変更したのか聞かせてくれ」
その時、高虎は臆することなく、家康に対して誠実に答えた。
**藤堂高虎**: 「この屋敷は徳川家康様、天下の大将であるお方が上洛の際に住まわれる場所にございます。もし、家康様に何かあれば、これは秀長様のみならず、関白であられる秀吉様の面目に関わると考えました。故に、警備上の不備を補うため、私の一存で設計を変更いたしました。もし、これが家康様のご不興を買うのであれば、どうぞ遠慮なく私をお手討ちください」
その堂々とした返答と、家康の安全を第一に考えた高虎の心遣いに、家康は感銘を受けた。
**家康**: 「高虎、そなたの思慮深い行動に感謝する。確かに、私を守ろうとするその心意気、しかと受け取った。これからもそなたのような武将を頼りにしてゆくことにする」
家康はその場で高虎に感謝の意を示し、その忠誠心と判断力に対して深く敬意を表した。この一件を通じて、家康と高虎の間には信頼関係が生まれたと言われている。
また、秀吉も後にこの話を耳にし、高虎の忠誠心と知略を改めて高く評価した。秀吉は彼にさらなる重要な任務を託すようになり、高虎は豊臣家の中でも一際輝く存在となっていった。
この出来事は、後に高虎が天下人たちの信頼を得るきっかけとなり、彼の名が歴史に残る一因となったのである。
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