三匹が、ゆけない

乙枯

異世界生活のはじまり

いきなり転生

第1話 いきなり絶体絶命

 はぁ、はぁ、はぁ……脚が上がらない。太腿の筋肉は早くもパンパンだ。ビックリするくらい息が切れる。胸が焼けるように熱く、心臓が今にも破裂しそうだ。十代のような体力なんてあるわけないことぐらい分かっちゃいたが、アラサーの体力がここまで衰えているもんだとは……正直言って今の今まで思ってもみなかった。だが脚を止めるわけにもいかない。


「いたぞ!! 邦男くにお、右から回り込め!!」


「はいっ、専務!!」


 背後から俺を追う声が聞こえてくる。バキバキと藪を突っ切るような音が右へズレはじめ、チラッと振り返ると白いTシャツの上に黒いタクティカルベストを着た沢村さわむら邦男くにおが右へ針路をずらしたのが見えた。


 クソッ、あいつら本気で俺を殺す気なのか!?

 畜生、何で全員で俺の方に来るんだよ!

 馬場さんと鹿島さんはどうなったんだ、もう捕まったのか!?


 一緒に逃げたはずの二人はそもそも最初に逃げた方向が違ったから姿が全く見えない。運動不足で小太りのアラフィフのオッサン二人じゃすぐ捕まるかと思ったが、見る限り全員が俺の方に来てるってことはアッチを追っかけてる奴は一人もいないんだろう。今は他人の心配してる場合じゃない。

 緩やかな右側の斜面へ下るつもりだった俺は針路を左へ、尾根を登る方へ向きを変えた。登りで速度は落ちるが、右後ろの沢村は斜面を降る方へ勢いをつけてしまった分、追いつけないはずだ。……俺の脚力がもてばだが……


「お前たちは左だ!

 沢があるから、沢に沿って、先回りしろ!」


 右へ行った沢村と指示を出している張本人以外の足音が左の方へ急速に離れていく。


 先回り!?

 アイツ、ここら辺の地形を知ってんのか?

 そう言えば昨日、みんなで手分けして周囲を見回った時、アイツらこっちの方を担当してたんだっけか……


 気づいた時にはもう遅い。今更引き返せないし、今はもうこのまま走り続けるしかない。が、それも長くは続かなかった。


「あ、ああっ!?」


 森を抜けて明るいところへ出たと思ったら、そこで行き止まりだった。見下ろせば高さ十メートルはありそうな岩肌もあらわな断崖絶壁だんがいぜっぺき。他に逃げ道は……無い。

 視界が暗くなったのは絶望からか、それとも運動不足の身体で無謀にも森の中を全力疾走して酸欠になったせいか、ともかく俺は不本意ながら完全に追い詰められてしまっていた。視界がえらく狭くなってしまった目で何とか崖下を見下ろしながら、両手を膝に付き、中腰の姿勢で乱れた息を整える。


「ゼエ、ゼェ、追い詰めたぞぉ黒田くろだぁ」


 ガサガサと藪をかき分ける音が近づいてくるのと同時に、下卑げびた声が響いた。いまさら振り返らなくても誰だかは分かる。パワハラ無能専務、村上むらかみ一茂かずしげだ。

 創業者の孫で社長の息子ってだけで入社早々に専務に就任……無駄に威張いばり散らし、反抗的な奴や気に入らない奴には暴言を吐き散らすのが仕事だと思ってる。部下の言うことに耳を傾ける度量も無く、難しい判断も出来ない。コイツが来てからというもの、それまで会社を引っ張ってきたセンパイ社員たちはどんどん辞めて行った。会社がブラック化して真っ先に辞めるのは仕事が出来る有能な人からと相場が決まっている。有能な人間は自分の能力に自信を持っているから、待遇が気に入らなければ転職することに躊躇ちゅうちょしない。逆に仕事の出来ない奴や、組織におんぶにだっこみたいな奴だけが残る。かく言う俺も転職が決まっていた。来月からは新しい職場で新しい生活が始まるはずだったんだ。転職先を決めてから辞めるのは常識だろ? 

 自分のせいで出来る人間にドンドン辞められていくアホ専務本人は「給料が高いだけの無駄飯喰らいを人員整理してやった」とか強気の姿勢だが、人手不足のこのご時世にわざわざブラック企業を選んで入って来る新入社員なんてほとんどいない。いても半数以上が三か月以内に辞めていく有様だ。おかげでただでさえ仕事の出来ない残った社員にしわ寄せがきて業績はどんどん下がっている。

 そんな無能専務だが、どうやら鬼ゴッコには才能だけはあったようだ。まさかこんな奴に追い詰められるとは……


「か、はっ、はっ……

 何だ、お前、地形、知ってたのか?

 やけに、要領が、いいじゃないか……」


「昨日、オレが見たのは、こっちの方、だったからな、憶えてたさ。

 オレは、趣味で……狩猟もやってんだ。

 地形を、利用して、獲物を、追い詰めるくらい、わけねぇんだよ」


「さすがッス、一茂かずしげさん!」


 追いついた沢村が一茂をホメ讃えると、アホ専務が調子に乗って吠えた。


「専務って呼べ!

 当然だろ、オレは、天才なんだ。

 無能なお前らとは違うんだよ!

 そのうち、社長になるのも、決まってんだ」


 まだ息が整わない。乾きすぎた喉は唾を飲みこむことも難しい。視界もまだ戻りそうになく、偉そうに自画自賛する自称天才のアホに、俺は苦笑いを浮かべることしかできなかった。


 ホント馬鹿だな。

 異世界こっちに来てもまだ会社の肩書が大事かよ……


 社員強制参加の親睦会バーベキューから一転、バスごと異世界転移して二日目……創業者一族の暴走で俺は同僚たちに狩られそうになっていた。


「何、笑ってんだ?」


「追い詰められて、頭おかしくなっちまったんじゃないッスか!?」


 んなわけあるか馬鹿……俺は身体を起こした。目がようやく回復してきて、呼吸もさっきよりは、だいぶ楽になってきている。


「追い詰めたつもりか?

 有利になったのは、どっちだろうな?」


「何だと!?」

「ハッタリっスよ、専務!」


 たじろぐアホ専務に向きなおると俺は、ゆっくりと身構えた。


「俺を追い詰めるために他の奴らを散らばせたのは間違ってたな。

 俺ぁ高校ン時は柔道やってたんだ。

 他の奴らも一緒ならヤバかったが、お前ら二人だけが相手なら、負ける気はねぇよ」


 アホ専務は目を見開いてゴクリと唾を飲んだ。アホだからすぐビビる。みっともなくアワアワと口をパクパクさせ、それから喉を鳴らして唾を飲みこみ、ようやく口を開く。


「お、おま……く、邦男はラグビーやってたんだぞ!?」


 やっと出た言葉がそれか……しかも自分じゃなくて子分を引き合いに出すとか、どこまで行ってもダメな奴だな。まぁ身長155センチ体重48キロのチビじゃ、相手が誰でも体力勝負なんかできねえだろうよ。


「ま、まかしてください専務!」


 邦男が律儀に前に出る。身長192センチ体重100キロの恵まれた体格があれば俺を何とか出来ると思ってるんだろう。……いや、多分実際にどうにかできちゃうだろうな。邦男は去年まで大学でラグビーやってたんだから、アラサーで運動不足の俺なんかじゃ体力で勝負になるわけがない。正直言って邦男アレをどうにかする自信はない。が、ここで退くわけにはいかない。退こうにも後ろは崖だし、捕まったらホントに殺されそうだし……こういう時こそハッタリだ。


「ヘッ、ラグビーなんてタックルだけだろうが?

 いくらでも投げ飛ばしてやるよ」


 笑ったのは自信からじゃなく、ハッタリに頼らなきゃいけない自分への自嘲だったが、向こうは自信の表れだと見たようだ。二人して唾飲んで半歩ずつ下がってやがる。


 よし、ビビったところで何とか時間を稼いで、そんでひとまず落ち着かせて、それから追いかけるのを何とか諦めさせよう。

 このさい、置いてきた荷物は全部くれてやる。

 どうせ何も無いんだ。

 俺の《転生のタマゴ》はポケットに入れて持ってきたし、このまま身一つで追い出されても問題ない。

 あっちだって、うるさい俺が消えるし、他に何も失うものは無いんだ。お互いWinWinなはずだ。


 だがどうやらそれは俺の都合のいい思い込みだったようだ。いや、向こうが俺の想像を超えるアホだったのか……何を思ったかアホ専務はフイにニヤリと笑い、邦男の脇を抜けて前へ出て来た。


「せ、専務!?」


 ポケットに手を突っ込み、自分より背の高い俺を見下すように胸を張る姿は滑稽だ。その人を舐め腐ったニヤケ面がなけりゃ素直に笑ってやれるのに……

 アホ専務は片手を掲げて邦男を黙らせると、ポケットに突っ込んだ手に何かを掴んだまま出した。


「お前の柔道なんかどうでもいい。

 天才のオレにとって、体力だけの馬鹿なんざちっとも怖くねぇってことを見せてやる」


「何だとぅ?」


 アホ専務はポケットから取り出したものを、左手から右手に持ち替えて振りかぶった。何か投げつけてくるつもりだ。


「これでも喰らえ、黒田っ!!」


 俺はアホ専務がモーションを起こすのと同時に左へ身体を振った。元の位置にいる俺を狙って投げたのなら、ソイツは俺がいた何もない空間を通り抜けて崖下へ落ちていくはずだった。だがここでも俺は失敗しちまった。アホ専務のダメっぷりを見誤っていた。


 下手糞め、よりにもよってオカマ投げかよ!?


 アホ専務の右手から離れた黒い球体は明らかにアホ専務の視線とは違う方向へ……つまり俺が避けた方向へ飛び出すと、ものの見事に俺の額にぶち当たり、そして音もも無く割れ、無数の小さな光の粒子になって飛び散った。


「当たった!」


 邦男の歓声が俺の耳に届いたが、それからは何も聞こえなくなった。何も見えなくなった。黒い球体から飛び散った何かが俺に降りかかり、俺の視界を、俺の意識を、真っ白に染めたんだ。

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