空は落ちないし、海は割れない。

榎木扇海

【天空落下し、深海割れり】

 今から五千年前、どっかの大陸のどっかの国のどっかのおうちで生まれたえらーいお人が今際の際におっしゃりました。


【吾が命潰えし時より数えて五千年、神々は怒り、地は乱れ、天空落下し、深海割れり】


 そのお人はとーってもとーっても賢かったので、皆はその人が遺した言葉をずーっと覚えておりました。

 ずーっとずーっと、信じておりました。


***


「この子は呪われている」

ネフェルが生まれてまだまもないころ、教会に洗礼を受けにいったネフェルの母が言われた言葉だ。冷たくそう言い放った相手は、その教会で一番位の高い人間だった。


 その日から、母がネフェルを抱くことは二度となかった。



 突如自分の身に降りかかった呪いのために、何より愛を分け与えてくれるはずだった両親に見捨てられ、たった一人で生きていくことを余儀なくされた幼いネフェルは、それでも小さな足を少しずつ動かして、神へ祈るために教会へ通った。

 しかしまだ言葉も知らない彼が教会へ足を踏み入れると、信心深い人々に罵られ、蔑まれ、嬲られた。

 毎日毎日石つぶてをぶつけられ、ネフェルの顔や体は真っ赤な痣で斑点模様になってしまった。白く柔らかな肌は削れてただれて、晴れた日の草原のようだった髪もいつのまにか泥で固まってぶちぶちと千切れた。その異形とさえいえる少年の姿を見た人々は彼を"カヴァ悪魔"と呼ぶようになった。

 そしていずれ、誰もがカヴァと呼ぶようになった。教会の人間も、両親も、彼のことをなにも知らない人間も。


 カヴァと呼ばれ続けるうちに、彼は自分の本当の名前を忘れてしまった。


 彼―――カヴァにとって、五千年前の予言は救いだった。世界中の人々があと10年後に迫りくる予言の日に怯えて過ごす中、カヴァだけはひらすらその日を心待ちにしていた。

 空が落ちて、海が割れれば、カヴァはきっと巻き込まれて死んでしまうだろう。そうしたら彼の中の呪いが誰かを苦しめることももうなくなるだろうし、彼のいなくなった世界は今よりずっと幸せで満ち溢れるはずだろう、と、カヴァは祈った。

 小さな手のひらに冷たい雪を包んで、静かに心の底から祈っていた。



 カヴァが生まれて五年後、彼に弟が誕生した。夜の海のような髪と、朝の空のような瞳をしており、教会で「この子は神に愛されし子だ」と微笑まれた。

 彼はイオラと言った。―――彼が洗礼を受けに教会へ行っても、誰も彼に石つぶてを投げることはしなかった。

 だから、カヴァはその白く小さな生物が、自分の弟だと認識できなかった。自分と同じひとから生まれてきたのだと、同じ環境で誕生したのだと、理解できなかった。


 ―――イオラがカヴァを兄と呼ぶまでは。


「おにぃちゃん」


 作り立てのお人形のような美しい顔をした幼子は、カヴァの煤汚れた上着を握りしめ、じっと目を見つめた。それがあまりに透明で、おもわず息を呑むほどきよらかだった。

 母親はその端正な顔をひどく歪めて、イオラを抱きかかえてカヴァから引きはがした。

「イオラ!あれは兄なんかじゃない、呪われた子だ。悪魔カヴァだ」

イオラは透明な瞳をまるくして、自分と―――そしてカヴァと呼ばれた兄の母親である女の顔を見つめた。

「でも、ぼくとおなじ目をしているよ」

カヴァは目を瞠った。そんなことない、そんなことあるものか。心の中で叫ぶ。


 呪われたぼくの瞳がそれほどきよらかであるものか。



 呪われたカヴァに注がなかった愛を取り返すように、両親はイオラに目一杯の愛を注いで育てた。生まれたばかりのころからイオラは、朝と晩は一度ずつ幸せを祈ってキスをされ、あたたかいご飯とふとんをあたえられ、手にしもやけができようものなら一晩中息を吐きかけて温められた。

 カヴァは家の裏の、一年を通して日影になるところで一日中座り込んで過ごし、夏は道端に生えた草を、冬は雪を食べ、体中傷だらけ泥だらけで、毎晩神に祈って眠った。


 教育という教育を受けられなかったカヴァに対して、イオラは恵まれた環境を与えられ、その才を如何なく発揮した。

 賢い教会の人間が―――カヴァを見るたび眉をひそめる者たちが、イオラの頭をなでるのをカヴァは眺めていた。嫉妬でも羨望でもなく、ただ何か自分とは異なる世界を傍観していた。

 しかし、イオラははっきりと、カヴァの瞳を見ていた。


「おにぃちゃん、ぼくとパンを食べよう」

寒空の下、家の影で座り込んでいるカヴァの隣にイオラが座り込む。そして白く湯気をはくパンをふたつに割った。

「おかあさんに見つかったらおこられるから、ないしょで食べよう」

そういってイオラは半分になったパンをカヴァに差し出した。カヴァは少し悩んで、そっと受け取った。

 カヴァはこの時、生まれて初めてパンを食べた。これほど柔らかくて、あたたかくて、おいしいものがあるなんて知らなかった。

「あしたはチーズを食べようね」

イオラは微笑んだ。カヴァはうつむいた。チーズ、と呼ばれたものがいったいどんな姿をしていて、どんなものなのか想像もつかなかった。ただ、口の中がずたずたに裂てしまわないようなものだといいな、と思った。


 それからもことあるごとに、イオラはカヴァをかまった。カヴァと話していたのがバレたら、母親に怒られるどころか村中から石つぶてを投げられるかもしれないのに、イオラは天使のような笑顔のままカヴァのそばにいた。

 カヴァと共に物を食べ、本を読み、うたを歌った。

 イオラがカヴァを一人きりの世界から連れ出すように、眼前が真っ白に染まる吹雪をとめるように、やわらかくきよらかな眼差しでカヴァを見つめた。


 できることなら、カヴァはイオラに離れてほしかった。―――このままそばにいれば、自分の呪いがいつかイオラを苦しめてしまうかもしれないのだから。

 イオラには永遠に笑っていてほしいのに。



 家からすこし歩いたところにある墓地のちかくの丘の上で、しんしんとふる雪を手のひらに包んで、カヴァは神に祈った。


 ―――どうか神さま、おこらないでください。空を落とさないでください。海を割らないでください。

 イオラのいるこの世界に、かなしみを落とさないでください。

 ぼくはひとりで、生きていくから。


 雪降る空の下、手も膝も頬も真っ赤にして祈るカヴァのまつげが、雪で濡れてきらきらと輝いていた。

 吐いたため息さえ冷たく凍り付いて落ちてしまいそうな、寒い日だった。



 世界中の人々が時間を止めようと奮闘して、神に来ないように祈っていたはずの日が、ついにやってきてしまった。大人も子供もさめざめと泣いていて、イオラの学校も、教会も、お店も、なにもかもしまっていた。

 両親はイオラを抱きしめて嘆いた。自分の終わりを、愛し子の終わりを、世界の終わりを。

 ―――カヴァはいつもどおり、家の影で座り込み、ただひたすら祈っていた。


「ぼく、おにぃちゃんと海にいく」

突然そういってイオラは両親の腕から逃げ出した。

 家を飛び出したイオラを母親は半狂乱になって追いかけた。イオラは真っ白な体を雪にうずめていたカヴァの手をとって走りだした。カヴァは人の手のひらが雪よりよっぽど温かいことを知った。

「イオラ!イオラ!!危ないから帰ってきなさい、イオラ!」

母親の割れ鐘のような声が響く。イオラはくるりと振り向き、いつもどおりに笑って手を振った。

「もうどこにいたってかわんないよ。ばいばい、おかあさん」

そのとき、すっかり晴れていた空に雷鳴が響いた。母親は悲鳴を上げて座り込む。

 カヴァは彼女に手を伸ばそうとした。しかしイオラが彼の腕をひっぱって走り出した。

「おにぃちゃん、ぼく、割れた海が見たいんだ。いっしょに見ようよ」

イオラの瞳が、まっすぐにカヴァの眼を射抜いた。

 彼は弟の小さな手のひらを、ぎゅっと握り返した。



 道には、人も獣も、なにもいなかった。

 ただ、透明な瞳の少年がたったふたりだけ、手をつないで走っていた。



 村の外れにある海は、ため息のような色をしていて、穏やかな波がそっと白砂を抱きしめていた。

「ねぇおにぃちゃん。きっとぼくらだけだよ。みんなこわがって外に出ないから」

イオラは笑顔でカヴァを見上げた。

「世界中でぼくらだけが、空が落ちて、海が割れるのを見れるよ」

カヴァは空と海の交わる境目を見つめながら、それがきっとどれほどうつくしいか考えていた。


 ふたり手をつないで座りながら、五千年の時を経た神々が怒るのを、ひたすらに待っていた。

 来ないでほしいと願っていたそれも、今のイオラを見ているといつのまにかおそろしくなくなっていた。


 しかし空は落ちないまま、いずれ太陽が海の下へもぐりこんでいき、イオラは待ちくたびれて静かに寝息をたて始めた。

 カヴァは弟が夜の海に溶け込んでしまわないように、服の端っこを握りしめながら、じっと夜空を見上げた。ゆっくりと浮かび上がってくる白い星々が、チカチカと目の奥を刺すようだった。雪とはまた違うその透明な輝きに、うっとりと見惚れていた。

 そのまぶしさが、うつくしさが、イオラのようだと思えた。



 カヴァが頭上で瞬く星の数を端っこから数えている間に、空はじわりじわりと白んでゆき、気づけばまた太陽が戻ってきてしまった。

 明るい光が山を越えて顔の前に差し込んできたとき、カヴァは慌てて、太陽を押し戻したほうが良いような気がして立ち上がった。その拍子でイオラも目を覚ます。

 目を何度もこすりながら、あたりを見回した。

「…あれ?ぼく、いつのまに眠ってしまったんだろう。でも、まだ空も落ちていないし、海も割れていないね。ねぇ、おにぃちゃん、ねぇ―――」

兄を見上げたイオラは、不意に今日がであることに気づいた。

 カヴァは慌てていた。確かに、毎日、来る日も来る日も祈っていた。どうか今日―――正しくは昨日、神さまがどうか怒りませんように、と。イオラのいる世界が壊されてしまわないように、と。…ただそれでも、自分の、呪われている自分なんかの祈りが、神に届くなどとは思ってもいなかった。

 しかしそんなカヴァとは対照的に、イオラはくすくすと、どこかいじわるげな笑い声をこぼした。

「―――なんだ、やっぱり空は落ちないし、海は割れないじゃないか」

ねぇ、これはだよ、とイオラは笑った。カヴァは目を丸くして弟を見つめた。けっさく、と言う言葉がどういう意味かはわからないが、何よりもイオラが空が落ちず、海が割れない―――誰もが信じて疑っていなかった予言が外れることに気づいていたような様子だったのが理解できなかった。

「…イオラ、は、しっていたの、?」

自分さえ初めて聞いた声はかすれていて、さざ波に流されていくようだった。

「予言が外れることを?知らないよ。ただ、信じていなかっただけ」

衝撃だった。世界中の人間のすべてが囚われた五千年前のえらいおひとの言葉は、カヴァの希望の―――絶望の、すべてだった。

「予言なんて、バカげてるよ。ぼくは信じない」

イオラはすっくと立ちあがり、空を―――本当は昨日落ちるはずだった空を指さした。

「そもそも、空にはがないよ。リンゴにも、パンにも、ぼくにも、おにぃちゃんにもはあるのに、空にはない。だからぼく、落ちることができるようなじゃないと思ったんだ」

そして次に、割れるはずだった海を指す。

「海だってそうだ。海にはがない。ぼくはには触れるけど、海には触れない。さわれない、のないものをどうやって割るというの?」

そしてイオラは、カヴァを見た。

「―――おにぃちゃんの呪いだって、本当はきっとそんなものないんだ」

目を瞠る。その目の端に雪が落ちてきて、とけて頬を伝った。

「そんなにきよらかな目をしたおにぃちゃんに、呪いをかけられるやつなんていないよ。それが神さまだっていうなら、ぼくは神さまなんていうのもいないと思う。」

イオラは手を伸ばして、小さな温かい手のひらでカヴァの頬にふれた。カヴァは少し怯えたように両目を細めた。

「…でも、ぼくは呪いがかけられているって…とてもえらいおひとが、言ったんだよ、?」

声を出すたび、喉がずくんずくんと痛んだ。ちぢれてはじけてしまいそうだった。―――そもそも、神さまがいないのなら、ぼくは今まで何に祈っていたのだろう。

「そのえらいひとよりずっとずっとえらいひとの予言が、今日あたらなかったんだよ?それでもそのひとの言葉にしばられる必要はあるの?」

学校に通って、とてもいい成績を修めているイオラはカヴァにとってすこし難しい言葉を使って、首を傾けた。

「おにぃちゃんをずっと苦しめている呪いは、そのえらいひとが言った言葉じゃないか」

カヴァにはイオラの言っていることがすぐには理解できなかった。必死に頭の中に取り込んで、なんどもなんどもかみ砕いて、味がなくなるまで噛み締めて、それからじんわりとおなかの中に落ちて行った。


 家族を、熱を、そして少年の朝焼け色の瞳に、じわりと雨がたまった。


「……ぼくは、悪魔カヴァじゃないの―――?」


兄と同じ色の瞳をもつ弟は、夜空に輝く星のようにまぶしい微笑みを浮かべた。


「そうだよ、もちろんだよ。おにぃちゃんはカヴァなんかじゃない―――おにぃちゃんの、本当の名前を教えて?」


 心臓がぶんなぐられたような痛みを放つ。

 本当の名前なんて、そんなもの、ずっと昔に忘れてしまった。

 誰も呼んでくれないのに、その名に何の価値があったのか。誰もがぼくを憎んでいるのに、ぼくに悪魔カヴァ以外の名前が必要だったのか。かつて、ぼくが本当にその名を得ていたのかさえわからない。

 ぼくは…呪われているのに―――



 ちがう !



「―――ネフェル…っ!!」


 そうだ、ぼくは、ぼくの名前はネフェルだ。カヴァじゃない。呪われてなんかいない。


 ぼくは人間だ。ただの人間なのだ。


「…うん、ネフェルおにぃちゃん」


 ネフェルはイオラの差し出した手を握りしめた。そして二人は走り出す。


***


 今から五千年前、どっかの大陸のどっかの国のどっかのおうちで生まれたえらーいお人が今際の際におっしゃりました。


【吾が命潰えし時より数えて五千年、神々は怒り、地は乱れ、天空落下し、深海割れり】


 そのお人はとーってもとーっても賢かったので、皆はその人が残した言葉をずーっと覚えておりました。

 ずーっとずーっと、信じておりました。



 けれども、とーっても賢くてとーってもえらいお人が今際の際になさった予言は、ついに外れてしまいました。


 世界中の人間はそのお人のいうことを信じておりました。世界はその日で終わるはずでした。


 しかしどうやら終わらないそうなのです。


 五千年経とうが、五万年経とうが、五億年経とうが、空は落ちないし、海は割れないのです。


 空も落ちず海も割れないこの世界に、きっと神さまはいないのです。悪魔もいないのです。この世でいちばんきよらかな少年に呪いをかけるものもいないのです。


 この世にはこの世にあるものしかないのです。


 そう思うと、案外この世界は空疎で、つまらないものなのかもしれません。


 きよらかな瞳をした兄弟がたったふたりで、手をつないで、パンを分け合って、ひそかに笑いあっているだけなのですから。


 それがすべてなのですから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空は落ちないし、海は割れない。 榎木扇海 @senmi_enoki-15

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ