【この杯を受けてくれ】
ヘンリー、ああしたのはどう言う理由があったのか事情を聞かせてくれないか。
ああ、それはどうでも良いんだ。君は既に、あの阿婆擦れの腰を抱いて、君の婚約者であるアンネマリー嬢に婚約破棄と告げてしまったのだから。それも、よりにもよって僕が留学から戻ったことを祝うパーティの場でね。
いや、いや、君のことだ、きっと並々ならぬ事情があったのだろう?家族を人質に取られたか、あるいは貴族の生活や人生に心底から嫌気が差していたか。
誰にも相談できず、どうしようもなく追い詰められてああしたのだろう?
勿論分かっているとも、僕の親友であるはずのヘンリーという男は大変に優秀な男だ。だからこそかの淑女の鑑たるアンネマリー嬢の婚約者に選ばれたのだからね。そのヘンリーがあれだけ愚かしい行いをしたのには、間違いなく一切合切をも破滅させるほどの深刻な原因が……。
安心してくれ、誰にも言いはしない。人払いもした、君のゆゆしき事情を漏らすようなことは決して無いと神に誓おう。この誓いが破られたら、僕は友情の裏切り者として粛々と神罰を受ける覚悟だとも。
だからもうその冗談は止めてくれ!ちっとも笑えもしない。朱唇から戯れに放たれただけに過ぎぬ、薄っぺらい【真実の愛】ごときでヘンリーは己の人生を破産させる愚かな男では無いのだから。そうだろう?
……余程に僕は君から信用が無いらしい、ヘンリー。
さっきから【真実の愛】、それしか言わないじゃないか。
もう止めるんだ、ヘンリー。君は誰よりも賢明で誠実な男だ。阿婆擦れの吐いた真っ赤な嘘にやられるはずが無いんだ。お願いだから二度とそんな単語を……。
良いかい、君は麗しのアンネマリー嬢の婚約者に選ばれて、それを大喜びで受けた。未来の大公家の栄えある婿として公私ともに認められたんだ。
知っているだろうがアンネマリー嬢は国王陛下の妹姫が母御、父御は北国の皇子の一人で、婿入りするまでは非常に勇猛な将軍として活躍していた。そして上の弟君はこの大陸で最古の貴族である東の公爵家に請われて婿に行き、下の弟君は最大派閥を牛耳る西の公爵家の跡取り娘が婚約者に定まった。さらにアンネマリー嬢の親友は南国の第一王女で――知っているだろう、あの国で流行った謎の奇病を即座に解決したほどの切れ者だ。次の女王はあの王女殿下で確定したともっぱらの話だよ。
いいかい、ヘンリー。地獄に自ら堕ちるような行為はいい加減に止めてくれ!
あの愚行一つで、君は国王陛下と東西の公爵家、南北の国を敵に回したも同然なのだから。もうあの阿婆擦れは既に死刑囚の牢獄にいて、明日の処刑のために色々な処置をされている頃だろう。
何てことだ!何らかの理由で君は人生に絶望していたのに……ああ、どうして僕はその時、君の側にいて慰めの言葉をかけてやれなかったのか!これからずっと、僕は悔いるだろう。君が……ヘンリーが誰よりも素晴らしい友人だった、その思い出を振り返る度にだ。
さあ、受け取ってくれヘンリー。
これが僕が君にしてやれる、最後の友情だ。
どうしたんだいヘンリー。いきなり真っ青になって……いや、それは流石に無いだろう。君ほどの男が、あのような愚行をやらかしたその結果を予測できていないなんて。
いや、いや、そうだった、誰にだって死は恐ろしいものだ。覚悟は出来ていても、いざ直面すれば青くなるのも無理はないさ。僕は何度も見てきたから、分かっているとも。
でも、君がこの杯を受けてくれなければ、僕は、もう……君に何もしてやれないまま、君があの阿婆擦れの次に処刑台に上らされるのをまじまじと見つめるしか……。
安心してくれ、ヘンリー。これは留学で最新の医学と薬学を学んできた僕が調合した、痛みも苦しみもなく終わらせてくれる杯だ。僕の友情と誇りの全てをかけて保証しよう。
その後で僕は皆に告げる。ヘンリーは突発的な精神の病の発作が治まった後で、己の名誉と尊厳のために自らこうすることを選んだと。
そうすれば僕の親友だったヘンリーとして、君の墓石に【安らかに眠りたまえ】と刻むことくらいは皆様も許して下さるだろう。
さもなくば君も……分かっているだろう、この国の死刑囚が屍になってもどのような処遇を受けるかは。
……ヘンリー、ああ、ヘンリー!
ありがとう、ありがとう、僕の杯を受けてくれて!
僕は不甲斐ない親友だったが、君の最期の名誉を守れて本当に良かったよ。
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